保阪正康 日本史縦横無尽
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盧溝橋事件から日中全面戦争へと追い込まれていく近衛文麿
近衛文麿が我々の味方になりうるか、軍事指導者らがさっそく試したのが、盧溝橋事件であった。近衛が首相に就任して1カ月後に起こったこの事件そのものは、確かに偶発的であった。しかし軍事指導者は、この事件を…
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大衆的人気もあった近衛文麿を利用した勢力
近衛文麿が現実に首相の座についたのは、二・二六事件後に誕生した広田弘毅内閣、陸軍の林銑十郎内閣の後を継いでのことであった。昭和12(1937)年6月である。広田も林もそれぞれ1年間も政権を担うことは…
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連合国側を批判する論文を書いた27歳の「殿様」の反骨精神
近衛文麿の思想のどのような部分が陸軍の政治将校に利用されたのであろうか。その点を見ていく必要がある。近衛はいわば当時の知識人の典型でもあった。 近衛は明治24(1891)年10月の生まれだが…
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公家の頂点“五摂家”出身首相 近衛文麿の異質さ
近衛文麿が首相として表舞台に登場する時は、昭和の日本が軍事政権や軍事を支持する勢力が力を持つ時であった。近衛が首相になる時が平時の落ち着いた時ならば、近衛に対する見方は大きく変わったであろう。その意…
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末期に叫んだ「永遠の平和」は鈴木貫太郎の遺言なのであろう
「戸外への散歩は気がすすまなくなっていた。気分の良い時にはどっかりと大きなアームチェアに座って本を読んだり、手垢がつくほど使い古したトランプでソリティアを楽しんだりした。人に誘われれば色紙に『洗心』と…
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鈴木貫太郎が歴史の中に名を残すのは、天皇の軍隊に敗戦を認めさせるという難事業だった
鈴木貫太郎首相が歴史の中に名を残すのは、太平洋戦争を終結せしめた「政治家」ということになるのだが、それは天皇の軍隊であるはずの軍事組織に敗戦を認めさせるという難事業であった。わかりやすく例えるならば…
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鈴木貫太郎は「軍人は政治に干与せざるべし」の筋を通そうとした
昭和天皇は、最側近の鈴木貫太郎に内閣の組閣を命ずる。しかし鈴木は「(私は)一介の武弁、従来政界に何の交渉もなく(略)『軍人は政治に干与せざるべし』との明治天皇の御聖諭をそのまま奉じて参りました」と断…
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鈴木貫太郎という首相は「近代史をスムースに現代史に移行させた武人政治家」だ
鈴木貫太郎という首相を、昭和史の中に位置づけるとするならば、どのような表現がふさわしいだろうか。「救国の首相」などというのは、古めかしいのだが、案外このような表現が似つかわしいかもしれない。あるいは…
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鈴木貫太郎、近衛文麿、石橋湛山 「引き際を知っていた」3人の首相の見事さ
昭和史には32人の首相が登場した。そのうちの昭和前期を象徴する首相に東條英機、中期では吉田茂、後期は田中角栄を選んで、その評伝を私は書いたのだが、その折の裏話ともいうべきエピソードを紹介してきた。こ…
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義一と角栄、「不愉快な2人のタナカ」
田中角栄の評伝を書くときに留意したことを、もう一点あえて付け加えておきたい。田中らしいエピソードだと思うからだ。 1990年代の初め、私は台北に赴いてかつて抗日戦争の指導部にいた中国国民党の…
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民主主義志向の官僚と“無自覚の社会民主主義者”田中角栄
旧内務省の地方局畑育ちの官僚は、警保局育ちの官僚よりもはるかに民主主義的な志向が強かった。田中角栄の派閥にはそういうタイプの官僚が集まっていた。いわゆるハト派タイプも少なくなかった。逆に警保局育ちの…
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後藤田正晴に旧内務官僚はなぜ田中角栄を支持したのか
田中角栄の政治的生命は、ロッキード事件による逮捕でも表面的にはゆるがなかった。田中の派閥はむしろ増えることにもなり、その政治力は昭和史の中でも稀有なほどの強さを見せた。田中は、自らの刑期を重くさせな…
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田中角栄の単行本では学者Hの意見は書かなかった
田中角栄がどのような状況になっても支持するというグループに、学者が入っているとは思わなかった。「越山」への投稿者の一人であったHは仮名であったが、私の取材目的を確かめて取材に応じることになった。Hの…
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大阪のMが田中角栄に“共感”した嫌戦意識
田中角栄の後援会機関紙(「越山」)の投稿欄は、ロッキード事件で苦境に追い込まれている田中への熱烈な支援で満ちている。田中支持の岩盤ともいうべき庶民の意識はいかなる構造になっているのか。取材で私が出会…
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ニセ結核患者を演じた皇軍兵士ゆえに見える田中角栄
「ニセの結核患者を見抜くには、大体の医者なら簡単なことなんだろうな。軍内にはそんな兵士はかなりいたはずだし──」 とMは言った後に、巡回でやってくる医師がどういう経歴なのかを探るのが「事前調査…
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軍内の手続き、しきたり、規則の内実…「この話は初めて話す」とMは何度も言葉を挟んだ
Mの証言を、改めて私の取材ノートからまとめるが、「この話は初めて話す」と彼が何度か言葉を挟んだことが、印象深かった。 例えばソ満国境などの守備隊には、月に1度か2度、軍医のチームが健康状態を…
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Mが田中角栄から感じとった「こんな戦争で死んでたまるか」という心理
合法的に軍内から抜け出す方法について、Mは声を潜めて語った。私はこの時まで、さらにそれ以降もこのような方法を詳細に語ったケースはほとんど聞いたことがない。それだけに衝撃を受けつつ、今も記憶の底に焼き…
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戦場を知る大阪の中小企業経営者Mは、なぜ田中角栄を支持したのか
田中角栄批判が渦巻いている頃(昭和58年前半期)、彼の後援会機関紙「越山」の投稿欄で、田中を激励している庶民の姿を取材した。その体験を語ることが、図らずも昭和史の断面を浮き彫りにすることにもなる。熱…
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田中角栄礼賛論の深層と戦争
あえて「言葉を失う」という表現を用いたが、ほぼ田中角栄と同年齢の「戦場体験者」には2つのタイプがあったからだ。むろん表向きの会話を交わしているだけでは、彼らも心を開かない。しかし私は東條英機の評伝を…
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田中角栄を応援する庶民を取材し、私は言葉を失った
田中角栄が東京地検特捜部に逮捕されたのが、昭和51(1976)年7月27日であった。この日の午前5時半にロッキード事件捜査本部の検事らに任意出頭を求められ、東京地検での取り調べの後、外為法違反で身柄…