すべては浅草で学んだ
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たけしが師匠と慕った深見千三郎と浅草サンバの伴淳三郎
最後は、松倉さんが忘れられない芸人の話だ。舞台を中心に活躍し、ほとんどテレビに出なかったので知名度は低いかもしれないが、深見千三郎はビートたけしや萩本欽一らが「師匠」と慕った浅草芸人である。 …
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伊東四朗は顔が覚えられるぐらいストリップ小屋に通ってた
「浅草フランス座」や「東洋劇場」などを経営していた東洋興業は「新宿フランス座」も運営していた。てんぷくトリオの三波伸介は、この新宿フランス座の出身だった。三波といえばテレビ番組「笑点」の3代目司会者を…
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渥美清<後編>療養所生活でも毎日患者を集めて笑わせていた
映画「男はつらいよ」シリーズの寅さんとして国民的俳優になった渥美清も、もともとは浅草フランス座のコメディー俳優だった。芸達者で評価は高く、2代目座長も務めている。アメ横で身につけた流暢なテキ屋の語り…
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渥美清<前編>“飴屋横丁”で働き身につけた寅さんの売り口上
浅草は映画の街だった。フランス座があった台東区浅草公園六区は映画館が並ぶ歓楽街で、毎週火曜日、新作映画の封切りがあった。 「それを全国の興行師さんが見にきて、上映するかどうかのバロメーターにす…
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舞台でセリフに詰まると二郎は歌い、欽坊は走った浅草時代
あまり芸が達者じゃなかった萩本欽一とは対照的に、相方の坂上二郎は多才だった。2人は東洋劇場で笑いを学んだのち、1966年にお笑いコンビ「コント55号」を組んだ。 「二郎は子供の頃から歌がうまか…
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萩本の両親から「せがれを使ってやってもらえないか」と…
フランス座の軟式野球チームには、のちにコメディアンとして大成する“欽ちゃん”こと萩本欽一も所属していた。フランス座を経営する東洋興業のもう一つの劇場「東洋劇場」でゼロから笑いを学んだ、生粋の“浅草芸…
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土橋正幸がエースの軟式野球「フランス座チーム」で一員に
直木賞受賞作家として活躍した井上ひさしも、かつては座付き作家だった。1950年代、上智大学仏語科の学生だった井上は初めて浅草フランス座を訪れた。劇場側も芝居に力を入れていたころ。大道具や背景も本格的…
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愛想のないエレベーターボーイがタップを覚えて直談判した
明大生だったたけしが、浅草フランス座でチケット売り場のおばちゃんに「コメディアンになりたいんだけど」と声をかけた。これがキッカケで、フランス座のエレベーターボーイの仕事を始める。 1階から3…
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明大在学中のたけしが「コメディアンになりたいんだけど」
「アッハハハー」と響き渡る笑い声。「人生笑ったもん勝ちですよ」と話す、浅草演芸ホール会長の松倉久幸さん(83)は中学卒業後、父親の宇七(うひち)氏に付いて長野から上京した。浅草の芸能世界に飛び込んで7…