明大在学中のたけしが「コメディアンになりたいんだけど」
ビートたけし(北野武)<前編>
「アッハハハー」と響き渡る笑い声。「人生笑ったもん勝ちですよ」と話す、浅草演芸ホール会長の松倉久幸さん(83)は中学卒業後、父親の宇七(うひち)氏に付いて長野から上京した。浅草の芸能世界に飛び込んで70年になる。長年、浅草演芸ホール・東洋館(旧フランス座)を経営してきた。由利徹、三波伸介、伴淳三郎、萩本欽一、伊東四朗、東八郎、ビートたけし――。数多くのコメディアンが修業し、羽ばたいていった。彼らとの出会いで得た人生哲学を紹介する。
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70年安保に敗れ去ったころ、明治大学工学部在学中のたけしは「生きる道」を模索し、浅草の街を歩いていた。ある時、浅草フランス座の前を通りかかると「コント出演・深見千三郎」と書かれているのを目にする。
「ストリップと軽演劇を行っていたロック座を売却したころです。ロック座は、1947年にできて日本初のストリップ専門の常設劇場。そこで活躍していた深見千三郎と兼子二郎(のちのビートきよし)らは、舞台を求めてフランス座に移ってきた。タケ(ビートたけし)が入ってきたのはそのころですね。チケット売り場のおばちゃんに『コメディアンになりたいんだけど』と声をかけたんだ。おばちゃんは得体の知れない若者に何か感じるところがあったそうで、『エレベーターボーイなら空いているよ。そのうち、深見(千三郎)の師匠に紹介してあげるから』と伝えたんですよ」