天才アラーキー傘寿を語る
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<11>新婚旅行で撮った「センチメンタルな旅」は1000部販売
陽子と結婚したのが(1971年)7月7日。結婚式の後に、すぐに新婚旅行に行ったんだよね。新幹線で、京都、柳川、長崎、4泊5日の旅だった。その旅行を撮影したのが『センチメンタルな旅』。1000部刷って…
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<10>披露宴で妻・陽子のヌードを上映したら祖母が寝込んだ
陽子と初めて会ったのは、電通の企業案内誌を作るというときに、それに載せる写真を撮るっていうんで、いろんな部署をまわったときなんだ。若い女の子が集まっている和文タイプ室(総務局文書部)でね、陽子に会っ…
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<9>電通で特別待遇 毎日スケッチブックの写真集を作ってた
電通にいたのは10年ぐらいかなぁ(1963年入社、1972年退社)。最初はアシスタントだったけど、徐々に冷蔵庫とかの商品写真や銀行やなんかの広告写真もやったね。三和銀行の岩下志麻の等身大の写真も撮っ…
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<8>「今日は小津ですから」と初ライカで撮った笠智衆さん
ライカで初めて撮影したのは笠智衆さんなんだ。笠さんを撮ることになって(1991年、『SWITCH』誌の依頼)、笠智衆を撮るんだったらライカで撮らなきゃって、そのときに初めてライカ(M6)を買ったんだ…
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<7>「電通だったら遊んでられる」大学の先輩の誘いで入社
大学を卒業して、電通にカメラマンとして入ったんだ。「さっちん」で、「太陽賞」(第1回)をとったのは、電通に入ってすぐだね。スタジオの入り口で電話を受けたんだ。オレ、自信があったからさ、平凡社から電話…
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<6>パチンコを向けてきた元気な少年が「さっちん」だった
第1回目の「太陽賞」を受賞した「さっちん」は、大学4年生のときに撮ったんだよ(1962年から63年に撮影。雑誌「太陽」の創刊1周年を記念して創設された第1回太陽賞〔平凡社主催〕を受賞)。千葉大(工学…
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<5>千葉大工学部はサボりっぱなし 雑誌投稿で生活費稼いだ
小学校の頃から親父が、「サン写真新聞」っていうニュース写真が中心の新聞をとってくれたんだ。「いろいろな写真が載ってるから、これ見てればいい」って言ってね。風景や花の写真も載ってた。だから、オレが最初…
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<4>父の死、母の死によってオレは写真の修業をさせられた
三ノ輪の実家の「にんべんや履物店」は小さな店だったから、親父が一人で何でもやってたけど、おふくろも手伝ってた。親父が死んでから、おふくろが下駄の鼻緒をすげてたね。「いつ練習したんだ」って聞いたら、「…
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<3>顔のない遺影 親父の死がフレーミングを教えてくれた
この写真も親父が撮ってくれたものでね、オレが小学校3年のころに作ったゾウの粘土工作なんだ。オレがこういうのを作ると、すごく喜んでくれて、「おまえは上手だぞ」って、ほめて、写真を撮ったりしてくれた。オ…
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<2>写真は親父を見ていて覚えた!下駄職人なのに撮影上手
この写真、親父が撮ったオレなんだよ。1歳ぐらいかなぁ、もうちょっと赤ちゃんかな。おチンチン出して、もうこの頃から、ちゃんとヌードやってるね(笑い)。親父、こんな写真を撮っておいてくれてね。面影あるっ…
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<1>傘寿のアラーキー オーストリアの勲章受章秘話を語る
「オーストリア大統領から誕生日のメッセージが届いちゃったんだよ!」 2020年5月25日、80歳の誕生日に、アラーキーこと荒木経惟の元に届けられたのはオーストリアのアレクサンダー・ファン・デア…