喜怒哀楽のサラリーマン時代
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佐伯チズさん<3>フランスとアメリカの売り方の違いを学ぶ
フランス生まれのゲランでは美容の基礎を徹底的に叩き込まれたという。 「第一にお肌の汚れを取り除くことが大切で、ベースをしっかり整えることを重視します。そのときの化粧水が写真のものです。純粋な水…
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佐伯チズさん<2>「時間あり余る」と専業主婦から会社員に
20歳で東京の美容学校に入学し、24歳で結婚。専業主婦になったものの、数カ月後にフランスの化粧品会社に就職した。 「OLをしながらフランス語、アートフラワー、華道、美容関係の学校に行ったり、そ…
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佐伯チズさん<1>高校卒業後はミノルタに就職 電話交換手に
お金をかけない美肌ケアなど主婦からセレブまで魅了する美容家、佐伯チズさんの美容家デビューはなんと60歳。化粧品メーカーの会社員として定年まで勤め上げてからの転身で、サラリーマン人生のほうが長いのだ。…
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師岡正雄さん<8>「アボリジニの方々が下半身…」と実況し
五輪などの国際的スポーツイベントの放送は、NHKと民放が共同で制作することになっている。アナウンサーは競技ごとに割り振られるため、実際に放送している局に所属していないアナウンサーが実況することも多か…
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師岡正雄さん<7>松井秀喜のNY開幕戦満塁弾に大コーフン
1998年のワールドカップ・フランス大会をもって、サッカー中継は“卒業”となった。 「Jリーグの開幕戦にドーハとジョホールバル、それに初出場したフランス大会まで実況をさせてもらったんですから、…
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師岡正雄さん<6>「岡野、蹴れ、決めてくれ~」と絶叫
Jリーグの開幕当時、ニッポン放送はラジオの独占放送権を持っていた。日本代表の試合も中継した。 「ドーハの悲劇」(1993年10月28日)で本大会出場を逃したアメリカワールドカップ・アジア地区最…
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師岡正雄さん<5>中途入社2か月でJリーグの開幕戦を実況
「東京に帰りたい」と九州朝日放送(KBC)を辞める決意を固めたとき、スポーツ雑誌で中途採用の広告を目にする。ニッポン放送がアナウンサーを募集していたのだ。 「この仕事ができたらいいなあって思った…
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師岡正雄さん<4>パ・リーグの黄金カードを実況したかった
南海ホークスが福岡ダイエーホークスに生まれ変わり、福岡を本拠地とする球団が10年ぶりに誕生した。それに合わせるように九州朝日放送(KBC)も組織を改編。社内に「スポーツ部」が再結成された。 「…
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師岡正雄さん<3>ラジオ番組ロケはアポなしで女子寮に突撃
九州朝日放送(KBC)の駆け出しアナウンサーだったころは、平和台球場の放送ブースに座って“送り”をやるのが目標だった。東京のキー局に切り取って送られる「プロ野球の試合の実況」をする仕事だ。 …
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師岡正雄さん<2>友だちゼロの福岡でアナウンサー修業を
就職採用試験の解禁日は、受けに行くところがなかった。キー局は、その前にどんどん決まっていた。声質の良さに気づかせてくれたバイト先の文化放送は、その年、アナウンサーの採用がなかった。残された手段は、手…
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師岡正雄さん<1>「マイク乗りのいい声だよ」と褒められた
ニッポン放送のスポーツ中継でおなじみの師岡さんは、今年1月に早期退職し、フリーアナウンサーとして活躍中だ。「ドーハの悲劇」と「ジョホールバルの歓喜」の両方を伝えたベテラン。WBC連覇にも立ち会ったが…
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玄侑宗久さん<5>「宗教か小説家どっちを取るかで悩み…」
肝臓を悪くした玄侑さんは仕事を続けられなくなり、川口市のゴミ焼却場を2年ほどで辞めざるを得なかった。26歳のときだ。 「仕事は辞めたのに、病気は一向に良くならない。どうしようもなくなって、福島…
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玄侑宗久さん<4>初任給17万円だったがピンハネされていた
24歳で慶応大学を卒業した玄侑さんが選んだ就職先は、埼玉県川口市のごみ焼却場だった。クレーン車を操り、次々と運ばれてくるゴミの山を焼却炉に入れる日々――。 「クレーンの操縦室は、四方がガラス張…
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玄侑宗久さん<3>執筆時間が欲しくてゴミ焼却場に就職
1981年、玄侑さんは6年間在籍した慶応大学を卒業する。卒業の前から小説を書いていたこともあって、「就職をどうするか迷った」という。 「当時、私の同級生が作品社という出版社に入社していたんです…
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玄侑宗久さん<2>コピーライターとして商品の宣伝文句を
慶応大学在学中の22歳のころ、五反田のナイトクラブで“正社員並み”に働いていた玄侑さんには、同時期にもうひとつの仕事があった。 「コピーライターです。代表的なモノはコダックの“その場の光でここ…
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玄侑宗久さん<1>学生の身分を隠してナイトクラブで働いた
2001年、「中陰の花」で第125回芥川賞を受賞した玄侑宗久さん。作家として精力的に創作活動を続ける一方で、福島県三春町にある福聚寺の住職も務める。作家になる前は、サラリーマン経験もあって……。 …
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高須基仁さん<5>少子化でオモチャの需要が減り続け残念
写真はパリのシャンゼリゼ通り。1987年6月12日の日付が残っている。大きな買い物袋をぶら下げているのが、外資系玩具メーカー「マッチボックス・ジャパン」の社長をしていた頃の高須さんだ。 「掛川…
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高須基仁さん<4> トミーに残っていれば役員になっていた
高須さんのサラリーマン生活は、足かけ14年で終わりを告げる。 トミー退社直前の1983年4月、東京ディズニーランドが開園。オフィシャルスポンサーのトミーは、開業前に社員全員が招待され、このテ…
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高須基仁さん<3>ゲーム&ウォッチ出現で玩具業界去る決意
1981年にトミー(現・タカラトミー)が満を持して発売したカードゲーム「UNO」は、初年度は5000セットしか売れなかった。倉庫には大量の在庫と返品の山……。そこで高須さんはあるPR手法を思い付く。…
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高須基仁さん<2>学生運動があの大ヒットゲームを生んだ
70年安保で学園紛争が沸騰した時代、高須さんは68年の国際反戦デーに防衛庁に突入し、“見事”前科モノとなった。 「まともな企業は相手にしてくれず、『それでも』と受け入れてくれたのが玩具業界でし…