喜怒哀楽のサラリーマン時代
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高須基仁さん<1>プラレールを大ヒットさせた“逆転の発想”
ヘアヌード全盛期、“脱がせ屋”の異名を取った高須さん。時に過激な言動から好戦的にもみられるが、普段は物腰柔らかな人物だ。玩具メーカーのトミー社員時代は、「トミカ」「プラレール」などの大ヒット商品を世…
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出口保行さん<5>法務省を退官し「先生」という夢を叶えた
秘書課の前にいた民間の研究所で2年、その後は法務省のシンクタンクである法務総合研究所に3年間所属した。研究をして論文を書くのが仕事である。 「法務総合研究所では『犯罪白書』を作る部署にいました…
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出口保行さん<4>“技術職”出身が異例の秘書課勤務に
法務省にいた22年間のうち、2年間は法務大臣官房の秘書課にいた。通常は法律や行政キャリアのポジションだ。心理職が起用されることの少ない“異例”の配属。任されたのは秘書課国際室の責任者だった。 …
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出口保行さん<3>「殺人」より「万引」分析のほうが難しい
東京拘置所には2年間勤務した。当時は、勾留される人数が多く、1日平均で3000人近く入っていたという。 「犯罪者は、毎日のように刑が確定し、各刑務所に移送されるわけです。私の仕事は、彼らを片っ…
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出口保行さん<2>ワル中のワルも8割以上は戻ってこない
これまで1万人以上の犯罪者に向き合ったが、誰一人として同じタイプはいなかった。理解するには、数多くの仮説を立てなければならない。少年鑑別所にいた時は、個々人に合った矯正プログラムを作るのも仕事だった…
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出口保行さん<1>法務省矯正局に配属 少年鑑別所を回った
テレビの年間出演数は300本以上。報道・情報番組で犯罪者の心理を分析・解説したり、バラエティー番組にも出演する。2007年に22年間務めた法務省を退官し、学者に転身した。法務省時代には、心理職として…
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塩田武士さん<5>100冊の取材ノートは「小説のネタ」に
2012年2月末に神戸新聞社を辞め、小説家一本になった。 「会社を辞める前、広告制作会社出身の石田衣良さんに会う機会があったので、『辞められたときに、どんな気持ちですか』と聞いたことがありまし…
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塩田武士さん<4>対局に敗れた羽生善治がカラオケを熱唱
2008年の王位戦、有馬温泉の旅館をワンフロア借り切り、羽生善治と深浦康市が対局していた。 「2日間かけて1局の勝負をするので、負けた時の精神的な負担は大きい。この時の敗者は羽生さんでした。対…
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塩田武士さん<3>組事務所前で丸坊主のお兄さんに掴まれて
警察担当になって最初の泊まり勤務のとき、仮眠用のソファに一人で寝ていると電話が鳴った。 空が白み始めるころだった。社会部の怖いデスクが「尼崎でカチコミや」と告げた。 「新人でしたから、…
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塩田武士さん<2>「それで紙面埋まるんか」と電話切られ…
初任地の阪神総局で、最初の2年間は警察回りを担当した。尼崎市の警察署4署(現3署)を2年生の記者(キャップ)と2人で分担して回る。 「“しんどい”とは聞いていましたけど、1日目から絶望しました…
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塩田武士さん<1>「キミがなんで残ったか分からん」
大学時代に松本清張や山崎豊子の書を愛読し、社会派作家を目指したという塩田さん。「小説家になるために就職したので、新聞社しか受けていません。新聞記者になる以外は意味がないと思い込んでいました」と振り返…
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山崎元さん<5>転職は仕事内容を正確に決めないと後悔する
2002年、三和総研は東海総研と合併し、UFJ総研となった。 「不満があったわけではないけれど、銀行が三菱と合併したので、副業の自由は残っても発言は不自由になるだろうと思い、辞めることにしまし…
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山崎元さん<4>転職10回で「会社員に向いていない」と自覚
1997年に山一証券が自主廃業し、拓銀が潰れ、98年には長銀と日債銀が国有化された。金融業界は激変し、転職が活発に行われる時代に突入した。 「それまで大手金融業界には、転職のために辞職するとい…
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山崎元さん<3>安室を歌い「山一自主廃業」の報道を待った
8社目に選んだのは、日本の4大証券のひとつ、山一証券だった。しかし、入社2年後の1997年11月24日に自主廃業する。当時の野沢正平社長が泣きながら、「社員は悪くありません」と訴えた会見は有名だ。 …
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山崎元さん<2>金融業界の汚い手法に憤慨し匿名で原稿を
投資信託の運用会社に転職した1985年ごろ、日本経済はバブルに向かって突き進み始めていた。プラザ合意による円高不況と、その後の低金利政策でカネ余り状態が生まれ、投機的な動きが目立つようになっていった…
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山崎元さん<1>転職12回 スタートの三菱商事は4年で退社
テレビ、新聞、雑誌、書籍など、多くのメディアで経済問題を論評してきた山崎さんは、1981年に東大経済学部を卒業した。新卒で入社したのは三菱商事。そこから転職すること12回、80年代後半からは副業も始…
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ラジカル鈴木さん<5>91年にマックのⅡcxを300万円で購入
元の事務所の社長の背中から、仕事は断らないことを学んだ。紹介の紹介で話を受けると、どこでも話を聞きに行き、仕事につなげた。 「そうやって仕事の幅が広がっても、自分が描きたいイラストはなかなか描…
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ラジカル鈴木さん<4>社長から渡された5万円の退職金
「GWくらいからずっと『この会社にこのまま居続けるのは、マズイ』という思いがありました。肩書はイラストレーターでも、イラストを描けない。自分のやりたいことができなくて、辞めるタイミングをうかがっていた…
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ラジカル鈴木さん<3>1500円の小遣いで新橋にお使いに
「新橋の烏森神社のあたりに3時で」 飲むのが好きな社長は担当の編集者とそんな約束を交わし、仕事を終えると飲み屋に繰り出すのが日課だった。 バブル真っ盛りの1985年、平均株価は、89年…
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ラジカル鈴木さん<2>電車を寝過ごして公園の砂場で爆睡
社員は、社長を含めて3人だけ。就職した1985年は、ファミコンが登場して3年目で、ゲーム雑誌が右肩上がりで伸びていく。レイアウトが少し仕上がると、編集者が来て、原稿をバサッと置いていくため、仕事は増…