喜怒哀楽のサラリーマン時代
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ラジカル鈴木さん<1>出前の店屋物が“残業手当”代わり
「3歳から画材に囲まれて育ったので、絵を描いて食べていきたい、とは漠然と思っていました」 こう語るのは、ポップなキャラクターが印象的なイラストレーターのラジカル鈴木さん。国内外のコンテストで数…
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吉田秀彦さん<5>結婚して家族がいたら会社を辞めなかった
2000年9月、吉田さんは自身3度目のオリンピックとなったシドニー五輪に90キロ級代表として臨んだ。が、準々決勝の試合開始直後に右ひじ関節脱臼の重傷を負い敗戦。2度目の金メダルの夢は途絶えた。ときに…
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吉田秀彦さん<4>新築独身寮の“1番いい部屋”に入居すると…
日本代表に選ばれるたび吉田さんは、オリンピックをはじめ世界選手権や欧州遠征など、大きな大会の直前は合宿のために会社を休まざるを得なかった。だが、普段は井の頭線の浜田山にあった独身寮暮らし。ここから大…
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吉田秀彦さん<3>昇進試験の“勉強漬け”が一番つらかった
1992年に新日鉄に入社した吉田さんは、ここで10年間、サラリーマン生活を経験した。この間、バルセロナ(柔道78キロ級で金メダル)、アトランタ(同86キロ級5位)、シドニー(準々決勝敗退)と3度の五…
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吉田秀彦さん<2>金獲得で一番有名な新入社員になって困惑
新日鉄に入社した1992年のバルセロナ五輪で、金メダル(78キロ以下級)を獲得。柔道の金メダルは、71キロ以下級の古賀稔彦と2人だった。 「オリンピックが終わって出社すると、金メダルのおかげで…
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吉田秀彦さん<1>明治大から新日鉄入社後すぐに五輪の合宿
吉田秀彦さん(48)は、1992年のバルセロナ五輪、柔道78キロ級の金メダリスト。この大舞台でオール一本勝ちで頂点に上り詰め、その名を世界にとどろかせた。当時は、明治大学から新日鉄に入社したばかり。…
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残間里江子さん<5>辞めたいと思ったら辞めることが礼儀
「辞めたい」と思いながらグズグズしているサラリーマンはいっぱいいる。それに対して残間さんは「辞めたいと思った時は辞めることが、そこで働いている人に対する礼儀だと思う」と言う。 「一生懸命やりたい…
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残間里江子さん<4>ラジオ番組でレコードを指で回し放送
静岡放送での仕事はアナウンサーだったが、地方局では番組にディレクターはつかないのが普通だったので、ディレクターの役割もこなしていた。平日の朝の長寿ラジオ番組「歌のない歌謡曲」もそうだ。残間さんは2年…
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残間里江子さん<3>「三島由紀夫自決」速報中と知らずに…
静岡放送にアナウンサーとして入社したものの、東北弁は抜けていなかった。アクセント辞典を片手に一人で繰り返し練習する日々が始まった。 「40歳くらいの女性の先輩が2人いて、お昼になると必ず毎日ど…
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残間里江子さん<2>エントリーシートに「会長の知人」と…
明治大学短期大学に在学中、周囲は命懸けで学生運動にのめり込んでいたが、残間さんは冷静だった。 「両親は我欲を捨て、正義のために運動をしていました。でも、娘が給食費納入日に担任の先生の口元がいつ…
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残間里江子さん<1>「一生働ける仕事に就くこと」を夢見た
子供のころに思い描いた将来は「一生働ける仕事に就くこと」だった。仕事に恵まれない父親の背中を見ながら、貧しい環境で育った残間さんにとって、それは教訓めいた現実的な夢だった。 「小学校のころは、…
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スンダリ・ミカさん<4>1人で働いて会社のありがたみ感じた
会社を円満退社したあと、まずはネパールに1年間滞在した。この1年でネパール語を学びつつ、歌や楽器のレッスンを受けていた。 「でも、やはり慣れない環境だったので心神喪失の状態になってしまって。そ…
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スンダリ・ミカさん<3>友人に触発されネパール行きを決断
音楽を続けられる環境を前提に就職先を決めたので、会社員時代もライブ活動をやっていた。高校時代の演劇仲間や大学時代に知り合った音楽仲間と一緒に、「スンダリバンド」と「ハルモニア」というバンドをやってい…
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スンダリ・ミカさん<2>過去問を担当し解答を議論していた
学生時代のアルバイトから、そのまま就職した出版社「東京学参」では、主に中学受験の過去問題集の国語を担当していた。 「忙しかったのは入試の時期。受験が終わるとすぐに、各校の問題を解いてみるんです…
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スンダリ・ミカさん<1>演劇に憧れ早大に入学も自暴自棄に
ネパールで大衆歌謡歌手としてデビューし、2004年に国王から勲章を受けた日本人がいる。それが今回登場するスンダリ・ミカさんだ。11年の「ネパール観光年」には観光大使にも就任。そんなミカさんの前職は、…
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小島一慶さん<5>俳句会講師はお金にならないが 今が楽しい
小島さんは今、「東京カルチャーセンター葛西」で2週間に一度、玉藻同人の名で俳句会の講師をしている。生徒の月会費は2回で4320円。あまりお金にはならない。 「一度の句会の準備にどれほどの時間を…
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小島一慶さん<4>「笑っていいとも!」の司会を依頼された
《一世(ひとよ)では たりぬこの世や 白牡丹》 小島さんが詠んだ俳句のひとつだ。小島さんは20余年慣れ親しんだTBSを退社する。 「本当は、退社も独立する気もさらさらありませんでした。た…
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小島一慶さん<3>永六輔さんに喜んでもらうため喋っていた
「いま考えると、仕事なのか遊びなのか、判然としない面白さがあったような気がします」 1970年から小島さんは深夜ラジオ「パックインミュージック」の月曜深夜(日付は火曜)を担当。放送は365回、…
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小島一慶さん<2>サラリーマンというのは上司次第ですね
TBSに入社して最初の上司は、アナウンス室長の小坂秀二さん(03年没)だった。 「軍医として軍隊を経験していますから、きっちりとされた方でした。眼高手低で、理想ばかり高くて実力が伴わないのでは…
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小島一慶さん<1>「いいアナウンサーを目指しなさい」と…
70年代は深夜ラジオが最も輝いていた時代。カメ&アンコーの「オールナイトニッポン」(ニッポン放送)、みのもんたの「セイ!ヤング」(文化放送)、そして「パックインミュージック」(TBSラジオ)がしのぎ…