喜怒哀楽のサラリーマン時代
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佐野謙二さん<3> 東北を一人で担当 出張を重ねるほど赤字
バブル時代の思い出といえば、「タクシーがつかまらなかったことくらい。浮いた話は一つもなかった」と笑う。 それでも仕事は忙しく、東北6県の営業を一人で担当したこともあった。 「本社は東京…
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佐野謙二さん<2>680円のジュースが売れず会議で訴えた
配属は営業部だった。体育会系スキー部で厳しく鍛えられただけに、問屋や店舗をいくつ回ろうが体力的なきつさは感じない。軽い気分での入社だったが、それなりに忙しく立ち回ったという。 「夏の大きな仕事…
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佐野謙二さん<1>ジュース会社なら“スキーができる”と入社
生涯一つの会社でサラリーマン人生を全うする人が少なくなったとはいえ、脱サラは簡単ではないだろう。大井競馬場の調教師として12年目の佐野謙二さん(53)は、日本ウェルチフーズ(現・アサヒ飲料)という飲…
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尾木直樹さん<5>体罰容認の職員室では正論が通じない
練馬中学校時代は、生徒の現行犯逮捕も目の当たりにしている。他校の生徒と神社で乱闘、駆けつけたときはパトカーの後部座席に押し込められていた。警察に追われ、ねずみ小僧のように塀の上を走って逃げた生徒には…
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尾木直樹さん<4>進学先の研究で男子生徒も女子高を訪問
生徒が自分たちで解決したり規律をつくったりするのを重視した東村山第一中学校では、尾木さんもいろんな取り組みができた。 「交換ノート」で生徒と信頼関係を築き、毎日発行する「学級通信」を通じてクラ…
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尾木直樹さん<3>オネエ言葉に磨きをかけた「交換ノート」
東京都の採用試験に合格し、最初に赴任したのは東村山第一中学校だった。1976(昭和51)年4月、「8時だョ!全員集合」で志村けんが歌う「東村山音頭」が大流行していた頃だ。修学旅行や遠足で、バスのフロ…
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尾木直樹さん<2>数多くの手当てが教師を分断し違和感を
当時の海城高校は、教員は若いうちに鍛えるという方針。尾木さんは、現代国語、古文、漢文に加え、中学1・3年生の国語の授業も担当。1週間に17、18コマを受け持った。 「1時間の授業に2時間の教…
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尾木直樹さん<1>教師は嫌いだった でも母親の一言で決意
最近は「尾木ママ」の愛称で知られるが、もとは「先生」と呼ばれる立場。22年間、国語教師として教壇に立ち、非行に走る生徒とも真摯に向き合ってきた。労を惜しまない指導法は評判を呼び、現役時代からメディア…
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岩下尚史さん<5>「ぶったり」「がったり」は恥ずかしい
雄山閣という出版社からの手紙には、企画書が同封されていました。手紙の内容は、「江戸時代から現代までの、東京の芸者の通史がないので、ぜひとも」ということだったんです。 私はこれなら書けると思い…
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団十郎と銀座のクラブを回り…ホステス8人をお茶の弟子に
新橋演舞場を辞めてからは、しばらく家で寝ていました。何をしたらいいかわからず、寝るしかないわけです。すると、ある方が心配してくださって「とりあえず話を聞こう」と銀座の麻衣子というクラブに呼ばれました…
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岩下尚史さん<3>代参の翌日 意表突く質問を浴びせた社長
新橋演舞場では、ほかにも新橋花街主催の「東をどり」の制作に携わったり、社長の代わりに日本舞踊や長唄、浄瑠璃などの家元たちのリサイタルに祝儀を持って見に行くのも仕事でした。6代目藤間勘十郎、4代目井上…
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岩下尚史さん<2>周りの人たちの世話で新橋演舞場に就職
国学院大学の日本文学科に入ってからは、夢のような一人暮らしでした。80年代でしたから学生運動も終わっていて、田中康夫さんの「なんとなく、クリスタル」がはやったり、学生でも行けるようなカフェバーやビス…
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岩下尚史さん<1>芝居の話と折口信夫にひかれ国学院大学へ
TOKYO MXの「5時に夢中!」など、バラエティー番組でもおなじみの岩下尚史さん(56)。2007年「芸者論」で和辻哲郎文化賞、11年の「ヒタメン 三島由紀夫が女に逢う時」では、三島と関わった2人…
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春風亭柳橋さん<5>噺家になると聞いた父親は猛反対
サラリーマンを辞める決意は固まったものの、家族に伝えると猛反対にあったという。 「母親は、“そんなにやりたいんだったら”と、同意してくれたんですが、父親が猛反対で。父は茨城で魚屋をやっていまし…
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春風亭柳橋さん<4>辞表を出すと東京から人事部長が飛んできた
就職して1年間は、あっという間に過ぎた。月~金曜日はずっと地方出張で、車の中では毎日落語を聴く。土日は名古屋市内のアパートに戻るという生活だった。 「一度はキッパリ諦めたはずの落語の道でしたが…
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春風亭柳橋さん<3>落語のテープに熱中し高速を下り忘れた
昭和55年、柳橋さんは大学卒業と同時に、1部上場の自動車部品メーカーに就職した。最初の勤務地は名古屋支店。仕事は営業で、主に北陸3県を担当し、冷凍車を売り歩いた。 「月曜日に名古屋を出てから、…
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春風亭柳橋さん<2>個性豊かな先輩から営業のキモを学んだ
1980年4月、東京プレス工業(現・東プレ)入社。同期は大卒10人、高卒25人ほどだった。 「入社後、1カ月半くらいは相模原市の山の中にあった青年の家みたいなところで泊まり込み合宿ですよ。当時…
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春風亭柳橋さん<1>落語家になる夢を諦めサラリーマンに
春風亭柳橋さん(8代目=61)は、春風亭昇太と師匠同士が兄弟弟子にあたる従兄弟弟子。1980(昭和55)年3月、東京経済大学卒業後、1部上場の自動車部品メーカーで2年間のサラリーマン生活を経験した。…
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杉江弘さん<4>組合委員長としてハイヤーを要求し叩かれた
杉江さんのボーイング747(通称ジャンボ)の飛行時間は約1万4051時間。世界最長としてボーイング社から表彰を受けている。 「誰も気づかないくらいスムーズに着陸するように心がけていました。理想…
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杉江弘さん<4>米国の訓練時代にいきなり操縦桿を握らされ
1969年にJALに入社した杉江さんは、その年の秋に同期入社のパイロット候補生19人と一緒に米カリフォルニア州の訓練施設へ向かった。 「PSAという航空会社が運営する訓練所で操縦訓練を受けまし…