保阪正康 日本史縦横無尽
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海千山千の吉田茂は、はたしてすべてを知っていたのか
昭和20(1945)年8月15日、日本の敗戦の日、吉田茂の別邸に入り込んだ工作員Aは、組織の解体の後、故郷の姫路に帰った。すると9月に吉田から、一度訪ねてくるようにとの手紙が届いた。 以下、…
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陸軍中野学校出の工作員Aは吉田茂の前で涙した
吉田茂の別邸に書生として入り込んだAに対して、吉田は釈放されてから改めてよく観察したようだ。吉田の著作、証言、さらには自らの周辺雑記などを丹念に見ても、Aのことは一行も一言も残していない。吉田は60…
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吉田茂は和平主義者として逮捕 政治家生活で最大の勲章になった
東部憲兵隊司令官の大谷敬二郎と吉田茂の対決は、とにかく吉田を講和を目指す和平主義者とし、逮捕拘束した上で軍内の本土決戦派優位の体制を作ろうとしていた。しかし吉田も簡単にはその手に乗らなかった。たとえ…
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追いつめられていた軍部の本土決戦派と吉田茂の攻防
吉田茂の逮捕後の取り調べについて、吉田自身が戦後に著した「回想十年」などに詳しく書かれているので、裏話として語り尽くすほどの内容はない。だが近衛上奏文の内容を取り調べにあたった東京憲兵隊はしきりに知…
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帝国陸軍の意識は憲兵隊と中野学校では異なった
昭和20(1945)年4月15日の早朝である。憲兵隊の一行が大磯の吉田茂邸の玄関に入っていった。むろんAには事前情報など知らせるわけはない。それにAは憲兵の指揮下にあるわけではない。陸軍省兵務局の工…
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24歳の陸軍スパイと吉田茂に迫るXデー…大磯に工作班のほとんどが集まった
近衛上奏文の内容は、永田町のお手伝いのルートから漏れたらしいが、Aの手記を読むと天皇が重臣から話を聞きたいと言い出してから、陸軍首脳の焦りは高まった。なんとしても天皇に講和を説くような事態になったら…
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大磯・吉田茂邸にもぐりこんだ陸軍情報工作員の詫びと告白
大磯の吉田茂邸に書生として潜り込んだ情報工作員をAとして書いていくが、その入り込み方の手口も明かしている。Aは戦後になって吉田に申し訳なさを感じ、手記を残しておくことにしたようだ。同時に吉田に自分が…
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和平主義者・吉田茂を徹底的に監視した東條英機首相のやり口
近衛上奏文の内容は、実は陸軍側に漏れていた。近衛が、天皇に会う前日に、吉田の自宅(東京・永田町。他に大磯に別邸があり、所用がない時は大磯で過ごした)を変装姿で夜に訪ねている。2人とも陸軍の憲兵隊から…
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吉田茂はなぜ近衛上奏文で共産主義を利用したのか
近衛上奏文の前半は論理的に日本、ドイツの劣勢な戦況が語られている。いわば戦争の決着はついているという意味になる。ところが後半になると感情的に共産主義の陸軍内部への伸長の警告となる。次のような一節もあ…
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近衛文麿と吉田茂は上奏文で天皇を揺り動かした
吉田茂の評伝を平成に入って書こうと机に向かった時に、結局吉田をどう見るかと具体的に検証していくと、2つの柱を立てなければならないと気がつく。近代史では軍人の戦略、政略に反対だということ。そして現代史…
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「私に秘書官は務まりません」徹底的に軍人嫌いだった吉田茂の異質さ
昭和10年代前半に駐英大使を務めるのは、相当に心労の多いことであった。ヨーロッパではナチスドイツが軍事で周辺諸国に圧力をかける。日本の軍部はそのヒトラーと同盟を結んで、枢軸体制を固めようとしていた。…
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貴族趣味、軍人嫌い、権謀術数、英米史観…吉田茂という人物
吉田茂の評伝を書くにあたって、私は東條英機のような手法ではなく、独自の手法で取り組んでみようと思った。なぜなら何人もの政治家や外交官仲間、さらには官僚に話を聞いても全て大体の話が出ていることがわかっ…
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父を客観的に見る目 昭和の終わり頃に聞いた吉田茂の三女、麻生和子の証言
昭和の3つの時期(前期、中期、後期)を象徴する総理大臣は、前期が東條英機、中期が吉田茂、そして後期が田中角栄と私は考えた。昭和史に関心を持つ者として、この3人の評伝は書いておこうと思った。 …
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反省は敗北…東條英機という軍人には「反省」や「自制」はなかった
東條英機の論法は、主観的願望を客観的事実にすり替えろ、という意味でもあった。誰が見てもグウの音も出ないほど痛めつけられているのに、負けたと認めないのだから、最後は壊滅する以外にない。こんな高校野球の…
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東條英機の発言や記録などすべてを細かく分析して見えたことは
東條英機の開戦前の号泣は、一面で「戦争せずとの天皇の意思に反して開戦となったことへの申し訳なさ」という見方もできる。私も当初はそのような受け止め方をした。多分常識的にはそういう見方が一般的になるのだ…
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真珠湾攻撃2日前の夜中、夫人だけが目撃していた東條英機の泣き姿
「ふとした話」というのは、カツ夫人や娘さんに会う頃は、東條英機の秘書や副官に会っていたし、軍内の反東條派だった石原莞爾系の軍人や東亜連盟系の活動家たちとも会って、散々に東條礼賛と批判を聞かされていたの…
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密かにインタビューに応じた東條英機夫人との交渉
昭和50年代初めに、戦後世代として東條英機の評伝を書いてみようと思い立ち、実際に取材活動に入ってみると、驚くことがいくつもあった。旧軍の戦時下での行動は、確かに傍若無人そのもので、彼らへの怨嗟、怒り…
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「君は政治団体や思想団体に属していないね。それでインタビューに応じることにしたのさ」
昭和40年代の終わりから50年代の初めといえば、太平洋戦争が終わってからまだ30年ほどである。戦争体験者の方がまだ多かったのではないだろうか。とはいえ私は旧軍人に特別に知り合いはいなかった。それどこ…
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平成生まれにとって昭和は「歴史」である
新しい年の始まりだが、このシリーズは「昭和史」を歴史の視点で見つめている。令和6(2024)年は昭和に換算すると、「昭和99年」になる。すでに35年が過ぎている。平成の生まれが社会の中軸世代に育って…
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近衛文麿、幣原喜重郎、石橋湛山…真の政治家になれなかった3人の総理に欠けていたもの
昭和前期、中期、後期の3段階に、相応の識見、歴史観、政策を持っていた総理大臣は誰であろうか。不幸にもその政策が実施されなかったことが、昭和史の不幸だとも言えるわけだが、あえて私は3人の総理大臣をあげ…