保阪正康 日本史縦横無尽
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原敬内閣と政治学者・吉野作造の民本主義 原稿で3つの注文を呼びかける
原敬内閣の誕生には、政治学者の吉野作造も好意的な原稿を、例えば「中央公論」誌上に発表している。吉野はすでにこの誌で、民本主義についての原稿(「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」)を発表し…
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原敬内閣を援護射撃した「東洋経済新報」の石橋湛山、政府に対する注文もより具体的
石橋湛山には、米騒動によって寺内正毅内閣が倒れ、原敬内閣が誕生したことは吉報ではあっただろう。原敬首相を支えるかのように、日本が国際社会で軍事主体の一等国の立場に甘えることに納得がいかないとの論をし…
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石橋湛山は「米騒動」の性質を見抜き、極めて的確な分析をしている
大正時代を俯瞰するにあたって、米騒動が転機になり、原敬内閣が誕生した経緯を見てきた。この内閣は図らずも政党政治誕生のきっかけになった。それだけに米騒動は体制内の変革をもたらしたと言いうる。 …
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藩閥政治の終焉、政党内閣の誕生
軍人出身の寺内正毅首相は、このような事態に対応する術を全く持ち合わせていない。ひたすら武力弾圧を進めていった。その一方で新聞がこの米騒動を煽り立てるような記事を載せているとして、米騒動に関するニュー…
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政府に対する不満や不信、国民側の総一揆としての米騒動
社会学的な考察になるのだが、この米騒動は実は単に、「米をよこせ」という運動とも言えなかった。そのデモの激しさ、さらには都市住民が積極的に参加したのを見ると、革命の前哨戦のような響きも伴っていたのだ、…
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大正7年7月から始まった米騒動は全国へと爆発的に広がった
大正時代の庶民の生活、意識の変化を確かめるには、大正7(1918)年7月から始まった米騒動を見ていくと実態がわかりやすい。この米不足は凶作とか不作といった理由からではなかった。「急速に発展した日本資…
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武者小路実篤が感じとった「大正」テロリストに漂う不気味さ
武者小路実篤は、この奇妙な短編小説で何を訴えようとしたのだろうか。白樺派の名門家庭の作家、言ってみればブルジョア階層に属する、半面理想的な共同体を目指しつつ「新しき村」建設にいそしむ作家の目に、この…
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「大正」とは幕末維新の空気を根本から捨てた時代だった
大正末期のアナキストの生態を調べていて、不思議な感じがする。一方でテロリストたろうとして「敵」と想定した人物をあやめようとする。強盗もやってのける。その半面、仲間同士の結びつきは深く、ギロチン社を起…
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「リャク」に始まり、ピストルや爆弾の入手…終焉を迎えるアナキストの非合法活動
ギロチン社の直接行動は、極めて即物的であった。何しろアナキスト集団として、革命家生活を送るのだが、それには生活費や活動費が必要になる。そのために手っ取り早く、「リャク」(略奪)に手を出すのである。リ…
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自らの命を武器に…テロリスト集団「ギロチン社」が結成されるまで
高見順の作品(「いやな感じ」)は、昭和初期のアナキストの生態を書いているが、主人公はテロリストとして死にたいとの願望を持っている。結局彼は、中国で日本の軍国主義の下僕のような役割を演じて死んでゆくと…
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大正末期から昭和にかけて権力と戦い利用されたアナキストの存在
大正史の年譜には、それほど多くが出てこないのだが、大正末期のアナキストたちの奔放な行動は注目しておく必要がある。無政府主義思想が一部の知識人、労働者に広がっていくのだが、むろんそれはロシア革命のプロ…
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蘆花が浮かび上がらせる「大正」への不満
徳冨蘆花の大正論の骨格である。次のようにあるのだ。 「大正は明治を以て鑑とせねばならぬ。幸徳処分の失敗は事実がこれを証する。大正はいたずらに明治の跡を踏んではならぬ。幸徳らは死んだ。難波大助は…
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摂政宮狙撃事件をきっかけに、国家主義と共産主義に二分されゆく日本
摂政宮狙撃事件の決行者の父親(難波作之進)が国会議員の職を去り、自宅に蟄居して恐懼の意思を示した。ほとんど人と会わず、数年を経ずして亡くなったと伝えられている。 もともとは保守主義の塊のよう…
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テロの直接行動が現実のものになった「虎ノ門事件」の衝撃
朝日平吾の斬奸状は、共産主義関係の論者にも影響を与えた。例えば佐野学などは斬奸状の内容については、自分たちとの考えに合致するかのような論文も書いている。朝日平吾の論説は、いわば右派からも左派からも歓…
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安田財閥の総帥・安田善次郎暗殺で英雄視されたテロリスト
政党政治を志向する首相が暗殺される──それが近代日本のテロの特徴であった。大正期の3大テロは、明治、昭和初期のテロとは異なる形になるのだが、安田財閥の総帥である安田善次郎暗殺もまた意味合いが異なって…
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大正時代「3大テロ」の影…原敬、浜口雄幸、犬養毅が暗殺された理由
大正時代の「3大テロ」は結果的に、歴史を変えることになった。財界首脳、現役の宰相、そして摂政宮といえども実際には天皇の役割を果たしていた裕仁皇太子、この3人への狙撃には前回紹介したように5つの特徴が…
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大正時代の3大テロ事件は明治期の前提をあっさりと打ち破った
大正時代は、明治と昭和に挟まれて歴史の年表に窮屈そうに抑え込まれている。明治の45年、昭和の64年に比べればわずか15年である。無理もないということか。 しかしこの元号の時代をよく見ると、い…
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「午前九時三十分、孫文は静かに逝った」歴史は蒋介石、毛沢東、関東軍将校の時代へ
孫文は中国人の医師のもとで最期を迎えたいと、1925年2月にロックフェラー病院を出ている。3月に入ると意識が薄れ、12日には危篤状態になった。山田純三郎は宋慶齢に呼び出され、最期の場に立ち会って欲し…
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孫文は苦痛で顔を歪めた…革命の最終段階を襲った肝臓がん
孫文が体の不調を訴えたのは、日本から戻ってまもなくのころである。共に神戸から上海に戻った山田純三郎は、孫文がわき腹に手を当てて、時に苦痛の表情を見せることに驚いた。 実は孫文は上海から天津に…
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加藤高明内閣は孫文を「歓迎されざる客」として敬遠した
孫文が亡くなって、日本人志士との間が切れた形になり、日本と中国の関係は極めて露骨な力勝負といった形になった。このシリーズではあと2回、その最終段階の光景を描いておく。孫文らの革命派を助けた民間人、政…