保阪正康 日本史縦横無尽
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残された女子学生の正体は「三原山の死の立会人」だった
昭和初年代は国家が暴力化したと言えるわけだが、そのことは社会そのものがある歪みを伴うことであった。人びとが心理的な逃げ場を求めて、退嬰的な風俗に傾いたり、将来に絶望するしかないと受け止めた青年男女の…
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昭和初期、日本の若者たちはなぜ自殺したのか?
暴力の時代に入って、人々の感情も歪みを見せることになった。昭和8、9年ごろの日本社会はその歪みがいくつもの社会現象を生んでいる。歪みのひとつが「死」への傾斜であった。社会のありように自殺する人々が一…
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「爆弾なんか手で受け止めよ」の歌詞を国民に押しつけた
東京音頭が全国の町や村に広がっていくそのスピード、そして年齢に関係のない広がりはどのように説明すべきだろうか。改めてその理由を考えてみると、すぐに幾つかの答えが浮かんでくるように思う。政治的にはテロ…
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屈折した庶民は熱病のように「東京音頭」で踊りまくった
昭和の陸軍はなぜテロやクーデターを繰り返し、そして国民を戦争(日中戦争、太平洋戦争)に駆り立てたのか。そのことをある程度明確にして、責任を問わなければならないのは当たり前のことだ。しかし、そういう問…
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永田鉄山刺殺事件 相沢三郎の日本刀で永田は“即死”だった
昭和陸軍はある時期から平衡感覚を失ってしまった。昭和3年の張作霖爆殺事件を契機として、テロと陰謀をもって自己の主張を通す組織となっていった。そういう状態で日中戦争、そして太平洋戦争に入っていったこと…
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元老の西園寺公望の働きかけで「斎藤実内閣」が誕生した
元老の西園寺公望は、軍部の威嚇や恫喝を受けながらも、軍事内閣を組閣するつもりはなかった。興津から東京に出てきて、西園寺は政治指導者や枢密院議長ら多くの人物に会って、この難局をどう乗り切るかを考えた。…
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「ファッショニ近キモノハ絶対ニ不可ナリ」と天皇は言った
5・15事件は確かに表面上は海軍軍人や陸軍の候補生らによる首相暗殺であったが、しかしこの事件は、天皇をはじめとする宮中や天皇側近の者たちに不安と警戒心を与えることになった。天皇は事件の一報を受けた時…
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犬養襲撃聞いた内閣書記官長は悲しむどころか笑顔を見せた
その一方で軍外では決行者たちへの共感、共鳴があった。また、一方で決行者への反発、怒り、それに不満が至るところで爆発した。 例えば丸の内警察署では、犯人が東京憲兵隊に逃げ込んだと知って署員20…
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荒木貞夫陸相は海軍の国家改造派の要人たちと通じていた
海軍内にあって国家改造運動を進めた中心人物は藤井斉少佐(昭和7年1月の上海事変で戦死。その後、少佐に昇進)であった。藤井は理論を持ち、人望もあり、国家改造の組織として王師会を結成していた。5・15事…
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内務省と東京憲兵隊は犬養首相に同情的な報道を禁じた
決行者たちは揃って東京憲兵隊に自首した。午後6時すぎだったという。海軍士官6人と陸軍士官候補生12人だった。 愛郷塾関係の塾員は午後7時を期して変電所を襲い、東京市内を暗黒にする予定になって…
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北一輝系に不信感 井上日召のグループには西田税暗殺案も
5・15事件と称される犬養首相暗殺事件は総勢20人余が参加しているが、その行動記録を見るとそれほど行動の範囲が広がっていたわけではなかった。殺害されたのは犬養首相と官邸の警護に当たっていた警察官一人…
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5.15事件で軍人は「問答無用、撃て」と犬養毅を射殺した
昭和7(1932)年5月15日は日曜日であった。東京・永田町の首相官邸に海軍の軍服をまとった5、6人の海軍軍人、それに陸軍士官らが車で乗りつけた。率いているのは海軍士官の三上卓、黒岩勇らで、彼らは官…
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天皇の大義があれば何でもできるという「大善」の考え方
昭和6年から7年は昭和史が岐路を迎えたときであった。既述のように国内でのクーデター未遂事件、テロ事件が相次ぐ。国外の満州事変、満州国建国。ここにみられるのは日本が軍事を軸にした国家としての自立であっ…
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血盟団事件は3月事件を起点に軍人の暴走が連鎖して起きた
血盟団とは、どんな団体だったのか。この事件について、東京地方裁判所検事の木内曾益が上司に宛てて書いた捜査の報告書がある。それを見ると警視庁刑事部を督励して調べさせたところ、「(日召事井上昭が茨城県の…
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井上準之助、団琢磨がテロリストに殺害された血盟団事件
10月事件の行動計画の内容は政界や官界、産業界にも広がった。軍部はいざとなれば何を行うのかわからないという威嚇であった。たぶん軍の内部にもそのような情報を漏らすことによって、実質的にクーデターを成功…
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青年将校その他民間右翼によるクーデター計画「10月事件」
3月事件の挫折から6カ月後の9月に満州事変が起こった。この事件は、関東軍参謀の石原莞爾を中心に練られた謀略事件であった。張学良軍が駐屯している柳条湖付近で線路の爆発を行い、これをきっかけに満鉄沿いの…
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「見えざる3月事件」がその後の全ての事件の元凶となった
この3月事件は軍内の反対派によってつぶれたが、宇垣陸相、小磯軍務局長らの首脳陣が軍主導の国家改造を行うという空気を生んだ。最後まで決行を主張したのは民間側で実働部隊を動かすはずの大川周明と清水行之助…
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3月事件の計画 小磯国昭と宇垣陸相が変心し決行派は総崩れ
3月事件の計画内容は、当初は桜会系の軍人で話が進められていたので、秘密は守られた。しかし時間とともに噂はごく自然に省部の幕僚たちに漏れていく。陸軍省の補任課長の岡村寧次や軍事課長の永田鉄山らの耳にも…
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徳川義親は「ぼくは人を殺害するのは好かん」と言った
徳川義親については、昭和史に関する多くの書でも、なかなか正体が不明といったニュアンスで語られている。その理由は、徳川の動きが右翼とか左翼といった枠内では捉えられない幅広さを持っていたためであろう。2…
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「騒乱が起きたらどうするか」大川周明は宇垣に詰め寄った
三月事件の中心人物は参謀本部のロシア班長の橋本欣五郎だが、他は支那課長の重藤千秋、支那班長の根本博、調査班長の坂田義朗らの桜会のメンバーであった。彼らは2月11日の夕方に密かに集まっている。 …