保阪正康 日本史縦横無尽
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「先生の感化教育は死せざる也」中江兆民を畏敬した幸徳秋水
幸徳秋水は中江兆民を畏敬し、かつ知識人、思想家として自らの師として仰いでいる。兆民が亡くなったのは明治34(1901)年12月13日である。幸徳は18歳の時に、同郷の先輩である兆民を紹介されて書生と…
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非戦を説く中学生への暴力を教師たちが笑って傍観した時代
「平民新聞」を読んでいて、いくつかの事に気がつくのだが、今回はそのうちのひとつのエピソードを語っておきたい。このシリーズの流れでは、閑話休題ということになろうか。 この週刊新聞には、学校関係の…
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外国人はスパイであると思え 平民新聞を狙った過剰な「露探」キャンペーン
日露戦争が始まる前、あるいは始まってからも一般新聞には「露探に注意せよ」という記事がしばしば掲載された。むろんこれは陸軍省などが、戦意高揚の一端として、意識的に流す啓蒙でもあった。そういう時に平民新…
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「平民新聞」は政府にとって厄介な社会改革を目指す機関紙だった
編集部に2部屋を使い、そしてこの部屋は自分たちの心の休息所にもしたいと考えて、部屋の模様や調度品をどうするか考えたというのだ。幸徳夫人が植木鉢を持ち込んだ。近所の人がやはり杉の樹立の鉢を提供してくれ…
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平民新聞に批判的だった徳富蘇峰 挙国一致体制を妨害すると不満隠さず
平民新聞創刊の裏事情は、幸徳伝次郎や堺利彦が第1号の紙面で明らかにしている。彼らはとにかく非戦論をもって社会を覚醒させようとするのだから、新聞発行は自分たちの政治的活動の一端であり、この新聞を公共性…
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内村鑑三が示した 政府に異を唱え、思想を以て戦争反対を貫こうとの構え
内村鑑三の退社の辞は、幸徳伝次郎や堺利彦とは少々異なった立場からの弁であった。 幸徳や堺は思想面からの退社であったが、内村は「萬朝報」が開戦やむなしに傾いていく事情は理解しつつも、情として自…
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対露戦争反対を語った幸徳伝次郎と堺利彦の「退社の辞」
黒岩涙香の「萬朝報」は、極めて鷹揚な新聞社であった。日露戦争に反対して退社する幸徳伝次郎、堺利彦、そして内村鑑三に「退社の辞」を書かせて掲載している。黒岩涙香をはじめとして社内に、少なからずの非戦派…
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幸徳秋水と堺利彦は非戦論で孤軍奮闘したものの孤立してしまった
平民新聞はたしかに庶民の正直な姿を伝えている。むろん日露戦争が始まるや、国民の大半はこの戦争を支持して、ロシアに対する敵対心をかき立てた。冷静に戦争反対や非戦論を口にするのは、知識人の一部であり、庶…
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「平民新聞」が報じた戦争ごっこで子供が殺された衝撃の事実
今、私は「日刊ゲンダイ オンライン講座」で、一つの講座を担当している。タイトルは「明治から令和までB面事件・人物史」というのだが、要は政治、経済、外交などの事件や事象をA面と考え、社会、事件、文化な…
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20歳をわずかに超え戦死した出陣学徒の無念さを読み解く3つの条件
出陣学徒についての項をひとまず閉じるにあたって、いくつかの歴史に継承されるべき遺稿や遺言、さらには彼らの次代に託した思いについて語っておかなければならない。特に齢22、23歳で人生を閉じてしまわなけ…
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特操見習士官らに「皇国のために」と言を弄する軍人は最低の輩
陸軍特別操縦見習士官の2期生たちは、昭和20年2月の少尉任官時には、1095人がいたことになるのだが、戦後の戦友会誌によると、140人が戦死したという。このうちの77人は振武隊という特攻隊の隊員であ…
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特攻学徒「ああア、だまされちゃった」の絶望的真意 妹に残したノートの中身
特攻隊の隊員として出撃していく学徒兵の中には、当然ながらその心中に死にたくないという感情があった。当たり前である。特攻隊員の妹を面会日に呼び、そこで仲間数人の会話を聞かせたケースがあるという例はすで…
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同じ学徒でも天と地の差 「運隊」で決まる戦死と生存の分かれ目
学徒出陣から80年、月並みな表現になるのだが、その数がどの程度だったかは不明である。仰々しく壮行会が強行されたにせよ、一皮むけばどの程度の学徒が戦場に赴いたのか、さらにはそのうちのどの程度の学徒が戦…
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山崎晃嗣は11時48分、青酸カリを飲んで自殺…人生観を貫くため死をもって清算した
光クラブの山崎晃嗣に触れてきたのは、学徒出陣によって陸軍に入営し、そこでの理不尽な事件、事象によって人生観が大きく変わってしまった例を確かめるためである。ヤミ金融によって自らの戦後の人生観(「契約が…
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光クラブ・山崎晃嗣は株式市場を知らない投機家にすぎなかった
光クラブは債権者会議で11月25日を設定し、この日までにまずは3500万円の債権の1割を弁済すると約束している。苦境を乗り切るための都合の良い便法であった。山崎晃嗣にはむろん目算があった。ほぼ2カ月…
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光クラブには「人生は劇場なり」「金利の鬼となれ」の戦陣訓があった
山崎晃嗣は釈放されて社会に戻ったとき、自分の人生はもうそれほど長くはないと知っていたように思う。何も不治の病にかかったわけではないが、人生そのものに飽いた感情を持った態度を隠さなくなったのだ。 …
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愛人として利用していたK子にだまされて逮捕 山崎晃嗣のその後
もう少し光クラブの山崎晃嗣の戦後について語っていきたい。光クラブは二重帳簿でヤミ金の実態を隠していたのだが、そのカラクリは山崎の秘書のK子を通して京橋税務署に逐一知らされていた。それが契機になって昭…
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山崎晃嗣は査察を二重帳簿で乗り切るも、女性秘書によって税務署に筒抜けに
山崎晃嗣の光クラブは、大胆にも資金のゆとりのある会社や財産家から高利で資金を集め、それを零細企業にそれ以上の高利で貸し付けるという初歩的なヤミ金融会社であった。 その取り立ては情け容赦なく、…
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「光クラブ」設立時はヤミ金融が横行した時代 1カ月の金利1~3割で貸していた
光クラブの山崎晃嗣に話を戻すが、山崎が体系立てようと試みた数量刑法学が学術的に意味があるとかないとかの判断はむろん私にはできない。ただこうした人間の感情を無視した、まるでロボットを扱うような視点は全…
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殴る蹴るのリンチを受けた学徒兵たち 戦後社会での「復讐」の実態
学徒出陣で軍隊生活を体験した大学生は、戦争が終わって学園に戻ってきた時に、大体は精神的に傷ついていた。この場合の「傷つく」というのは価値観の逆転にということなのだが、戦争末期の軍内の空気は異様だった…