小島一慶さん<1>「いいアナウンサーを目指しなさい」と…
70年代は深夜ラジオが最も輝いていた時代。カメ&アンコーの「オールナイトニッポン」(ニッポン放送)、みのもんたの「セイ!ヤング」(文化放送)、そして「パックインミュージック」(TBSラジオ)がしのぎを削っていた。今回登場するのは、そのパックで大活躍した小島一慶さん(73)だ。
声は年を取らないといわれるが、小島さんほど変わらない人も珍しい。「やあ、やあ」とあの人懐こい笑顔で登場した小島さんだが、幼少期は貧しい家庭で、父親を知らずに育った。
「母には『お父さんは戦争で死んだ』と告げられていましたが、そうじゃないことは幼心にも、うすうす感じてました。妻子ある男性との許されぬ仲でした。母は僕を育てるために外に働きに出て、僕は祖父母の元で育てられた。祖母がかわいがってくれたため寂しい思いこそしませんでしたが、祖父が大酒飲みで、事業に手を出しては事あるごとに失敗していた。もともとは満州でビアホールを経営していたやり手の実業家だったのに、戦争で全てを失った。傷心で引き揚げてきた先が、祖母の実家の長崎です。今にして思えば、祖父が自暴自棄になって酒に逃げた気持ちも分からなくもない。まあ、そんな家庭で育ちましたから、『将来は普通のサラリーマンにはなれないだろう……』と思っていました」
そんな一慶(本名は、かずよし)少年の最初の夢は浪曲師だ。
「小2の図画工作の授業で、『僕の夢』という課題で絵を描かされたのです。僕が描いたのが浪曲師。なにしろ、最初に買ったレコードも広沢虎造でしたから。それが中学に入った頃から演劇に夢中になり、長崎東高校時代も演劇漬け。当時、長崎西高校には、後に寺山修司さんと天井桟敷を結成する劇作家の東由多加(00年没、享年54)がいて、“東の小島、西の東”で互いに張り合ったものです。ところが、高校の先輩に芸術座で菊田一夫さんの右腕として活躍していた方がいて、その先輩が『役者になっても20年は食えない』と言う。それからですね、アナウンサーを目指すようになったのは」