保阪正康 日本史縦横無尽
-
孫文返り咲き 蒋介石を参謀長に抜擢し軍事組織を整備
このシリーズは、辛亥革命に協力した日本人志士が、つまりは志半ばで、孫文らの革命派と分かれていく過程を俯瞰している。辛亥革命は当初の計画の通りには進まなかったわけだが、分かれていく、その理由は幾つかあ…
-
孫文は三たびの返り咲きで広東政府の指導者になるも…最大の同志・宮崎滔天は死去
孫文とその信頼の厚かった陳炯明との対立は、軍事上の衝突に行きつき、孫文は珠江に停泊している広東政府の軍艦に逃げ込んだ。反乱軍はイギリスと日本の艦船に挟まれる形の軍艦に砲撃を加えられず、孫文は命を永ら…
-
中国の内情に日本の関東軍が食い込んだ背景
山田純三郎はその不安を確かめなかった。孫文が共産党に近づくことには賛成ではなかったが、それを口にするほどの関係ではなかった。孫文さんがソ連にうまく利用されなければと自らに小声で呟くしかなかったのだ。…
-
ヨッフェ・孫文「共同宣言」は北京政府の怒りを呼び、デモ隊が死亡
第1次辛亥革命のあとから、中国の歴史は確かに軍閥の戦いに転じた。統一政府はできず、軍閥が割拠して勢力拡大に努めた。その中で孫文の革命派は三民主義の思想(民族、民生、民権)を掲げ、中国国民党を結成して…
-
歴史から消えた「辛亥革命に協力した日本人」と秘められた思惑
陳独秀らにより中国共産党が正式に結成されたのは1921年7月である。ソ連のコミンテルンの主導による成立には、ソ連での社会主義革命に倣って中国もそれに準じる体制を設立しようという目的があった。この政党…
-
北京政府と広東政府の対立で「第三の革命勢力」が出現した
「五・四運動」は、中国の学生を中心に起きたナショナリズムの高揚運動であった。講和会議は日本の言い分を認める形になった。山東などの領有が認められたのである。北京の大学生たちは、全国の学生や労働者に向けて…
-
中国のナショナリズムに火をつけた第1次世界大戦後のパリ講和会議
孫文らの革命派はさまざまな考えや出身地閥のような人脈の乱れもあり、袁世凱政府の後を継いだ段祺瑞政府との間の抗争も思うようには進まなかった。さしあたり孫文がよりどころとした広東政府とて寄り合い世帯だっ…
-
孫文は「我が国の欠点は軍閥の横行です」と自省を込めて語った
辛亥革命は1911年10月に成就したわけではなく、孫文の革命精神は第二、第三の革命と続いていくことで、その成果を形作っていった。それに協力した日本人の総数はどれほどに及ぶのか、十分には分かっていない…
-
矛盾に満ちた日本の対満州政策 二重構造のもとでそれぞれがそれぞれの思惑を
孫文は日本政府が段祺瑞政府に肩入れすることは、中国の人々を裏切ることだと日本国内の有力者を口説いた。もっとも孫文自身は中国で密かに第三革命の準備を進めているので、腹心の者が日本を訪れて説得にあたって…
-
大正5年6月の袁世凱の急死が招いた中国の混乱と内戦
袁世凱政府と孫文らの革命派の抗争は大正5(1916)年になって中国各地でより激しくなった。孫文らの同志が各地で反袁の挙兵を行うのだが、これはそれほどの広がりをもたなかった。袁世凱政府の側が国民党の幹…
-
東京で交錯していた政府、孫文、日本人志士による駆け引きと思惑
日本外交が侵略的色彩の濃い「二十一箇条要求」の、その第5号を省いて最後通牒の形で袁世凱政府にこの要求を突きつけたのは、5月7日である(大正4年)。袁世凱政府はひとまずこれを受け入れた。2日後の9日で…
-
「二十一箇条要求」第5号に込められた中国属国化の企み
「二十一箇条要求」の内容は、たしかに中国のナショナリズムを刺激する内容であった。もともと日本は日露戦争で獲得した権益を名実ともに、日本の国益に合体させる政策を進めていたのだが、さらにそれを拡大しようと…
-
近代日本の最大の過ち? 権益を拡大するチャンスを画策した「二十一箇条要求」
「二十一箇条要求」が日本国内、そして中国国内にどのような反響を起こし、何を浮き彫りにしたのか、そのことを考えてみたい。高名な歴史研究者が「近代日本の最大の過ちは、この二十一箇条要求にある」と喝破したが…
-
袁世凱の弱みを握るため孫文を監視した日本政府 勝手に手を出せない大物が支援
「討袁挙兵」が孫文ら革命派の合言葉となった。純粋の革命派は自分たちの掌握している地域で、袁世凱政権と袂を分かつ宣言を発表している。李烈鈞や黄興、陳其美、陳炯明らは上海、広東、江西で起こしていた。そのこ…
-
桂太郎と孫文の公開されなかった極秘会談メモ
「二十一箇条要求」を突きつけられて、辛亥革命後の袁世凱政府と孫文らの革命派はどのような動きをしていったのか。それが日本国内の政治地図を変えることにもなった。歴史の深層部分はこの違いを見ることで各様の人…
-
中国の統一をめぐる北一輝の変節…革命派とは一線を引くように
宋教仁は、革命派が孫文の言う通り国民党をつくることを了解して、その政党づくりに奔走していた。すでに袁世凱系は共和党を結成していたため、それに張り合う意味もあって精力的だったのである。袁世凱系にはそれ…
-
辛亥革命の実態…袁世凱と孫文を支えた日本の誤謬
辛亥革命と一口に言っても、その実態は必ずしも孫文らの革命精神や具体的な改革がすぐに実行されたわけではなかった。袁世凱は清朝帝政の側の革命を阻止する役割を演じるポスト(全軍を統率する欽差大臣)に就任し…
-
袁世凱は革命派と清朝政府の対立を利用して暗躍した
もう少し辛亥革命について触れておくが、そもそも「辛亥革命」とは一般的にどの期間を指すのだろうか。これについてはそれぞれの立場で異なり、私は1911年10月の武昌蜂起から始まり、翌12年2月に孫文が正…
-
「武力を用いても君主政体を維持させる」と突っぱねた内田康哉
山県有朋が辛亥革命(明治44~45年)で清朝帝政を倒した孫文らの革命派に軍事干渉しようと考えていたことは、いくつかの資料によって明らかになっている。革命の成功が見えつつある頃、犬養毅は頭山満らと中国…
-
山県有朋が辛亥革命を恐れた理由 共和政体に不安ないし怯えを抱いていた
明治期から大正期への移行にあたって幾つかの注視しておくべき点がある。それは明治44(1911)年10月の辛亥革命である。孫文の革命派は武昌での蜂起に始まり、漢陽などを制圧していき、列国もこれは清朝政…