保阪正康 日本史縦横無尽
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吉田茂は獄中生活について「一生に一度は入ってみるべきだよ」と言った
吉田茂が釈放されたことは、スパイの東に複雑な感情をもたらした。この辺りの心理は、こうした仕事に携わっている人物に共通の思いであるらしい。あえて手記から引用するならば、「なぜ釈放したんだ。こんなに早く…
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憲兵隊のデマ「吉田さんは裏山で無電を使い外国に情報を送っていた」に怒り
憲兵隊は吉田茂を逮捕したあと、10日間かけて別邸内部の家宅捜査を続けた。むろん目当ての近衛上奏文の写しなど出てくるわけはない。憲兵たちは「何か主人から言われて隠しているものがあるだろう。それを出せ」…
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書生・東の手記「年老いたこの『吉田』が、それほど軍部にとって強敵なんだろうか」
昭和20年4月15日の吉田茂逮捕劇は、書生の東の手記に詳しく書かれている。戦後になって憲兵の側もその経緯を書き残しているが、大体の記録に目を通した感想を言うなら、兵務局防諜課の東の記録が微細にわたっ…
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吉田茂の手紙はスパイによって全て複写された
吉田茂が永田町から大磯の別邸に戻るときは、新橋から大磯までの間に必ず尾行がついた。中折れ帽の新しい背広に身を包んだ紳士2人がついてくる。彼らは大磯駅前の旅館に宿を取って、これ見よがしに吉田の別邸周辺…
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「中野学校のスパイは一個師団に匹敵する」の言葉を胸に青年は吉田邸の内情を探った
吉田茂を中心にしたヨハンセン監視グループの中心に、東は位置していた。大磯の吉田別邸に書生として入り込み、その日常を丹念に見つめていたのだ。彼が戦後になって書き残した手記をもとに、そのスパイ行動を記述…
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三国機関の首魁は取材を申し込んだ私を怒鳴り、田中隆吉のことを口汚く罵った
三国直福は昭和15(1940)年5月に南京特務機関長から陸軍省兵務局付になり、その後、軍事調査部に移り、部長職を務めている。その経歴を見ると分かるように、ある時期からは特務、情報工作などに専念した軍…
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憲兵隊、兵務局のほか東條英機が密かに作った三国機関
戦時下に吉田茂邸に送り込まれたスパイの手記を基に、軍事指導者たちの凄まじい弾圧ぶりを紹介しているのだが、今回は戦後になって軍閥の内幕を暴いた田中隆吉と東條英機政権の確執を書いておきたい。すでに田中の…
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スパイチームの仕掛けは吉田別邸にいる書生を追い出すなど、驚くほど大掛かりだった
吉田茂を中心にしたヨハンセングループの監視は、陸軍省兵務局の防衛課に所属する形で10人ほどのチームによって行われた。その一人である東は、巧みに大磯の吉田別邸に書生として入り込んだ。この10人ほどのメ…
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陸軍省は戦傷をでっち上げて吉田茂にスパイを送り込んだ
大磯の吉田茂の別邸に書生として入り込んだスパイ東の手記によれば、昭和18年の春から中野学校出身者が「思謀関係の盗聴に従事」することになったという。 この年の春、中野学校の卒業生は73人いたそ…
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東と名乗る青年が遺した原稿用紙100枚におよぶ陸軍スパイの手記「防諜記」を見せられた
吉田茂の平河町の自宅には雪子夫人が住んでいたが、昭和16年10月に病死している。そのあとは女中頭が家の中の一切を取り仕切っていたというのだ。その女中頭の元に20歳の女性が女中の一人として、憲兵隊から…
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軍事指導者の焦り…吉田茂に取り入り「近衛上奏文」を盗み出したスパイ
吉田茂の検挙の裏側には、軍事指導者の焦りがあった。すでに東條英機は天皇の信頼を失い、その座を引いている(昭和19年7月)。そのあとを継いだ軍事指導者たちの中には東條の強行路線をひく者も多く、本土決戦…
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中野学校出身者は政治指導者、天皇側近らをスパイした
東條英機首相をはじめ、軍事指導者が戦争指導の全責任を負って戦争は進められた。彼らは政治的経験が全くないため、国民にどのように対峙すればいいかをほとんど知らなかった。そのため、ただひたすら弾圧や威圧で…
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秩父宮は東條英機の木で鼻をくくったような回答を読んで床に伏し死線をさまよった
東條英機首相の自筆の書簡は、彼自身の怒りがそのまま文面に表れていた。「帝国の現段階は一切の国力を挙げて完勝の一途に邁進しておるのですから、人事問題の如きは戦後の議論にして下さい。(略)その是非の論議…
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「連携が良くなっている」秩父宮に届いた東條英機首相からのつっけんどんな回答
東條英機首相と秩父宮のやりとりは、昭和19(1944)年2月から5月まで続いた。陸軍大臣と参謀総長を兼ねるといったほとんど前例のない権力の集中に、秩父宮が表立って抗議あるいは抵抗を試みたのは、兄宮に…
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独裁的な東條英機に、秩父宮は病床から「怒りの質問状」を送りつけた
太平洋戦争の開戦時と戦時下での東條英機内閣の反政府陣営に対する弾圧は、二重の残酷さを持っていた。その人物の社会的立場、信用、さらには経済生活を奪うだけでなく、戦場に徴用して「死」を強要するのである。…
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戦犯第1号・山下奉文司令官の遺書に書かれた日本軍の反省と問題点
太平洋戦争の終結後、日本軍の軍事指導者や占領各地での各種行為の実行者は、戦勝国によって裁かれた。いわゆるBC級戦犯裁判である。山下が昭和19(1944)年10月から指揮していた第14方面軍司令官とし…
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イギリス軍司令官との会談内容を国民の鼓舞に利用された山下奉文
山下奉文とシンガポールの要塞を守っていたイギリス軍の司令官・パーシバルとの会談は、シンガポールにあるフォード自動車工場で行われた。イギリス軍は降伏にあたっていかなる条件を示し、日本側はそれにどう応じ…
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山下奉文は2.26事件の際、情勢を鋭敏に読み取った
山下奉文を理解する時に、あえて3つの局面を抽出してその人間像を見ていけばいいように思う。これは山下の人間性が問われた時に、硬直な融通の利かない性格か、それとも実はそれぞれの局面で柔軟性の取れる性格か…
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東條英機に警戒され、死刑になった山下奉文の悲劇 語り手によって異なる人物評
山下奉文の評価は極めて難しい。「マレーの虎」とか「悲劇の将軍」といった語られ方もするのだが、実際に彼に会った人たちの書き残した人物評、あるいは彼の身近にいた軍人たちの表現などを確かめていくと、やはり…
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東條英機が天皇を忖度して山下奉文を遠ざけた真相
東條英機と石原莞爾の対立についてはこれまでも詳しく記してきた。今回は山下奉文に対する異様なまでの感情的な反発について書いておくことにしたい。 東條はなぜ山下を嫌ったのか。そこには2人の性格の…