保阪正康 日本史縦横無尽
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東久邇宮稔彦親王が発した「一億総懺悔」と日本社会の二面性
日本がポツダム宣言を受諾して、アメリカを中心とする連合国に正式に降伏の意思を明確にしたのは、昭和20(1945)年8月15日の正午である。鈴木貫太郎首相は辞任し、後任に東久邇宮稔彦親王が首相を引き継…
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「日本の奇麗な女に会わせようとしただけなのに」不平を述べた
マーク・ゲインが書いている内容をもとに記述を進めると、RAA(特殊慰安施設協会)は、まず勧業銀行から3000万円の貸し出しを受けたという。そして1株1万円で、業者や組合などに割り当てられた。ここから…
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あの手この手でご機嫌を…アメリカ軍が愉快に過ごせるよう作った慰安施設
RAA(特殊慰安施設協会)は実際は半年もしないうちに潰されたのだが、この変わり身の早さは日本人の特徴なのかもしれない。戦時下に日本に協力したビルマ(現・ミャンマー)のバー・モウは日本の敗戦とともに日…
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国防省に施設廃止を訴え 米国の婦人団体の圧力で潰された日本の“売春宿”
特殊慰安施設とはいうものの実際は売春宿のことである。占領軍が日本に進駐してくる前にすでに開業の準備は整っていた。占領に伴う性犯罪を何よりも恐れていた政治指導者は、この施設で性の発散をしてくれることを…
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女性を集めて慰安所を造った日本政府 建前は良家の子女の貞操を守るため
6年8カ月の占領期間には、日本人と日本社会の性格や思考法、さらには人生観などがよく表れている。前回紹介したように、マッカーサー暗殺をGHQ(連合国軍総司令部)が恐れていたにもかかわらず、そういう動き…
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マッカーサー暗殺計画は事実だったのか? その後、全く報じられていない
GHQ渉外局発表の妙な記事は各紙に掲載された。おそらくかなり強制的に書かされた記事ということであろう。 当時は紙不足で、記事量は全体に少ない。それなのに、例えば中央紙は1面の真ん中に4段組の…
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憎しみの感情どころか「マッカーサー様、日本の天皇になってください」という手紙まで
太平洋戦争が終わってみると、日本人の性格、生活、思考法、さらには人生観、歴史観は大きく変わった。というより戦時下の狂乱状態を悪夢として自省し、すぐに新しい時代に慣れていった。幕末から明治に移行して人…
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戦況の悪化とともに東條英機の顔は「能面」になっていった
東條英機と石原莞爾の対立、相克をもう一話語っておきたい。軍人と表情についてという視点で、両者を見つめてみるとどうだろうか。 一体に軍人は喜怒哀楽の表情を見せない。というより武人は柔和な表情で…
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東條英機が示達した「戦陣訓」を真っ向から否定した石原莞爾
東條英機陸相が、陸軍部内に「戦陣訓」を示達したのは、昭和16(1941)年1月のことであった。この戦陣訓は日中戦争で、日本兵が意外なほど簡単に捕虜になったり、あるいは不法行為をはたらくことに戦時指導…
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「我が闘争」を読んだ石原莞爾はヒトラーを強く批判した
東條英機と石原莞爾の対立と彼らの考え方の相違点についてもう少し話を進める。ヒトラーに対してどう思っていたか、両者の違いを見ていくとかなりの相違点が発見できる。 東條はヒトラーと比較されて論じ…
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事変の解決に奔走する石原莞爾、弾圧する東條英機
石原莞爾は表面上は参謀長の東條英機に逆らわなかった。しかし、石原の周辺は東條に批判的で、その態度が日本軍閥の権化であると陰に陽に反対の動きを示した。石原は日中戦争(当時の語では支那事変)の拡大に反対…
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東條英機を使った石原莞爾追い落とし作戦 2人の対立は意図的に演出された
石原莞爾と東條英機の対立について、もう少し具体的な事実を語っておこう。この2人の対決は、昭和陸軍の基本的な体質に関わる問題であり、なぜ東條のような軍官僚が跋扈するに至ったかの重要な側面がうかがえるか…
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米国の青年がデモクラシーを語ることに嘆息した東條 側近との面会では反省も呟いていた
石原莞爾の東條批判は、前回も紹介したように徹底していて、そこには「犬」呼ばわりするほどの憎悪感がある。もとより石原にはそれだけの雑言を浴びせるだけの理由もあるわけだが、昭和陸軍の研究者が見落としてい…
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「東條は犬。犬を裁くのは米国の恥だ」と公然と批判した石原莞爾
石原莞爾は、自らが独自の戦争観や歴史観を打ち立てただけに、無思想、無定見、無自覚の軍人や政治家に強い憤りを感じるタイプであった。その意味では人を見る目は、決して鷹揚なタイプではなかった。特に東條のよ…
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理論派の石原莞爾を閑職に追いやった村役場の小役人・東條英機
石原莞爾と東條英機の対立は、昭和陸軍の軍人像を語るときのもっともわかりやすい例である。理論派で才気走った切れ者・石原と、村役場の小役人・東條と評された2人は、互いに意識していた。私は、この対立が戦後…
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備忘録に凄まじい記録 国民を死地に追い込んだ責任感が欠如した東條英機
石原莞爾のように、満州事変に自省の念を漏らした軍人はそれほど多くはない。最も甚だしいのは、兵士の士気が落ち、国民が脆弱だから戦争に負けたのだという軍事指導者である。石原と対立関係にあったのは東條英機…
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石原莞爾は「満州事変で沢山の若者を殺してしまった。悪いことをしたのだ」と言った
石原莞爾の秘書でもあり、同志でもあった高木清寿は、石原の家を包むように広がっていた雲が、ゆっくりと空に上がっていくのを、呆然と見つめていた。黒雲は空の雲に吸い取られるように消えていった。「私はこの時…
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板垣征四郎の夢を見ながら命を閉じた石原莞爾
石原莞爾が病死したのは、昭和24(1949)年8月15日の夕方である。最期は銻子夫人、秘書であり同志だった高木清寿、さらには東亜連盟の門弟らが看取っている。60年の生涯であった。日本が戦争に負けて4…
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自殺した中野正剛の門下生は戦後、元憲兵隊員を山中で詰問した
戦時下のさまざまな霊の話、さらには戦時下で召集されることを巧みに拒否する話、隊内暴力に対する戦後になっての復讐話などいくつかを語ってきた。戦争は終わった、という時には実は終わっていない。兵士たちの心…
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「懐かしいなあ」と言いながら、殺意で首を締めた元兵士が抱える隊内暴力の闇
戦場に出てみて、自分たちはつまりは「死」の世界にいるのだと兵士たちは気がつくのである。戦記文学はそのような過酷な状況での人間の運命を描いている。 五味川純平の「人間の条件」(昭和31年)は、…