保阪正康 日本史縦横無尽
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戦争とファシズムを疑いながら特攻作戦で命を散らした慶大生
陸軍特別操縦見習士官は、第1期から第5期までに分かれているのだが、もともとは学徒出陣の学生を対象とした制度であった。戦果が目に見えて減少し、パイロット不足が現実の姿になった。そのため航空機やグライダ…
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「パイロット不足」を口実に進められた学徒の特攻作戦
学徒出陣の正確な数字は、結局曖昧なまま歴史上で語られてきた。この数字を正確に知るにはいくつかの資料や文書を見ていき、大まかに出陣学徒の枠組みを理解する以外にない。 私たちの国はこうした基礎数…
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学徒出陣の裏で練られた本土決戦計画
出陣学徒の壮行会は各地で開かれたのだが、東京、大阪、京都の様子について、当時の新聞報道を参考にその内実を書いてきた。そのほかの地方でも壮行会は開かれている。出陣学徒は何も東京の大学、高等専門学校だけ…
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戦争反対の意思から出陣学徒の壮行会を拒否した学生も多かった
出陣学徒の壮行会は、意図的に「涙」によって演出された節もあった。しかし同時に、この壮行会に出席しなかった学生も多い。戦後になって出陣学徒の様相が全く不明にされることに疑問を持った学徒たちの有志が、定…
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出陣学徒壮行会でカメラマンは「悲壮な現実」を伝えようとした
出陣学徒の壮行会について、80周年を迎えた今、歴史的に次の世代である我々はさしあたり2点の事実を知っておかなければならない。この2点を史実と絡ませることで、私たちは語り継ぐべき歴史が何であるかを確認…
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出陣学徒の儀式は国家の知性、理性が崩壊していく道筋
出陣学徒の壮行会の様子をなぞっておくことにするが、この模様は一部ニュース映画として保存されているので、毎年、学徒出陣の頃(10月21日前後)にはテレビなどでも放映される。大体が「雨の中の儀式」「見送…
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わだつみ会の独善と戦没学徒の政治利用 指導者Yはファシズム的体質だった
出陣学徒の全体像を明らかにすべく原稿を書き進めてきたが、壮行会の学生代表の「答辞」をめぐる問題を記述しているうちに、その枠組みを超えて、戦後の責任問題にまで論点が外れてしまった。そうなる理由は、学生…
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答辞を読んだ江橋慎四郎は「お前ら学生はたるんでいると本当によく殴られました」と
学徒出陣から50周年を迎えた平成5(1993)年に、出陣学生を代表して答辞を読んだ江橋慎四郎はやっと重い口を開いて、当時の心中などを語り始めた。私もたまたま取材に応じてもらい、4時間近くかけて詳細を…
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宣誓学生を批判…戦後社会に出現した「即日帰郷」という虚構
出陣学徒の壮行会で学生代表が読んだ「答辞」については、実はその50年後の平成5(1993)年に幾つかのメデイアが取り上げた。歴史的史実として整理しておく必要があったからであろう。実際にこの学徒出陣は…
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江橋慎四郎の続く証言「あれこれ添削され、私は勧進帳を読んだのです」
学徒出陣壮行会で「答辞」を読んだ江橋慎四郎の証言に、もう少し耳を傾けてみよう。なぜ江橋が代表に選ばれたのか、その理由について次のような理由も挙げている。 「文学部の代表が運動部全体の代表になる…
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江橋慎四郎は「当時は情報の閉鎖社会であり、完全に管理された社会でした」と語った
出陣学徒壮行会で、出陣していく学徒を代表して「答辞」を読んだのは、東京帝大文学部の江橋慎四郎である。江橋は戦後社会で、このときの心情やら、答辞の内容についてほとんど口を開かなかった。しかしその証言を…
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さまざまに論じられた江橋慎四郎の「生等もとより生還を期せず」
出陣学徒壮行会では、東條英機首相と岡部長景文部大臣の挨拶に続いて、学生側を代表して慶応義塾大学医学部学生の奥井津二が「壮行の辞」を述べた。見送りの学生たちを代表しての言葉であった。 当時の東…
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東條英機首相の訓示「仇なす敵を撃滅して皇運を扶翼し奉る」という空虚な字句
学徒出陣と一言で言われるが、昭和18(1943)年10月に学業を停止して入営、あるいは応召した学生はどの程度いるのか。さまざまな統計を検証してみると、ある程度の規模がわかるという。その数字が各機関に…
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出陣学徒の総数はなぜ軍機だったのか? 太平洋戦争は行き当たりばったりだった
今年は学徒出陣から80年を迎える。すでに1世紀近くも前になるわけだが、いまだに不明点だらけというのも、いささか気がひけることだ。 しかし現実にこの学徒出陣は、まず全国の大学生らがどれほど戦場…
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開戦前の日本が延期期限を短縮して大学生を兵舎に送り込んだ苦しい事情
日本近現代史の折々の事象や事件を追いかけながら、今、私たちが教訓にすべきことは何かを考えてきた。昭和20(1945)年8月15日に天皇が国民に明らかにした終戦詔書の字句表現の中に、戦争の終結を「終戦…
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国民は戦争にうんざりしていて、玉音放送はまさに「神の声」だったとする野坂昭如
「義命の存する所」と「時運の趨く所」の2つの表現を通して、日本の戦争終結を考えてきたわけだが、こうして細部にこだわりながら確認していくと、終戦と敗戦の違いが次第に鮮明になってくる。実際に玉音放送では「…
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日本人が「敗戦」と向き合うことは徹底解体からの出発を意味した
終戦か、敗戦かを見ていくことは、日本の近現代史を理解していく上で、意外に重要な問題を含んでいる。なぜならこの違いによって、太平洋戦争の持つ意味が全く異なってくるからだ。 終戦といえば、軍事上…
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吉田茂は「悪魔に息子がいるなら間違いなく東條英機だ」と書簡に書いた
吉田茂は8月15日の玉音放送を聞いた後はしばらく動いていない。反軍的な政治センスの持ち主だけに、敗戦という事態は容易に受け入れたであろうが、しかし国家の姿として複雑な思いを持ったことは間違いない。特…
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敗戦の悲しみと戦争が終わった安堵と喜び 西尾末広が流した「涙の二等分」
政治家たちは、この終戦詔書をどのように受け止めたのか。さまざまな政治家の受け止め方をもう少し見ていこう。主に政治家自身が書き残した回想録を参考に考えたい。 斎藤隆夫の感想をもう少し記しておく…
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斎藤隆夫は「国家之より大事起こるべく、予の予想全く適中す」と記した
終戦詔書について、その文案作成のプロセスにおけるいくつかの字句をめぐる動きを追いかけてきた。細部を見るのでなく、基本的に2つか3つの字句を見ることで、歴史の方向性が問われる事態だったことがわかる。「…