保阪正康 日本史縦横無尽
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大久保利通の血を受け継いだ 天皇側近・牧野伸顕の苦悩
東條英機の本心は開戦か、避戦かとなれば、間違いなく開戦であっただろう。特に首相になってからは、天皇の「外交交渉で解決せよ」という指示に表面上は従ったが、政策の再検討の連絡会議では現状の日本の様相を見…
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木戸幸一内大臣の失敗 東條英機を推挙し天皇に大命降下させた
この連絡会議で発言の比重が重いのは、大本営側は陸軍参謀総長の杉山元と海軍軍令部総長の永野修身である。それぞれ次長が出席しているといっても形式的なところがあり、最高責任者の総長を差し置いて発言できるわ…
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リベラリストの西園寺公望が生きていたなら…軍の意向が色濃く反映された首班指名
太平洋戦争の開戦を決定したのは、むろん天皇主権国家であったのだから、御前会議だったという形にはなっている。しかしこの御前会議は単なる儀式であり、その前に開かれている大本営政府連絡会議での決定をもとに…
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太平洋戦争の開戦は誰がどのように行ったのか?
太平洋戦争の開戦の経緯を丹念に追っていくと、私たちはまだまだ意外な事実に出合う。このことは日本社会の歴史理解がかなり一面的だと告白することでもある。これは重要なことだが、開戦の決定は誰がいつどのよう…
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ハルノートには日本経済にプラスの項目が含まれていた 真面目に交渉を続ければ…
吉田は、アメリカ側のハルノートの原文を見たことを伝え、その上で「これは交渉の基礎である」との注意書きを読んだ。そのため「最終通告ではないと思っている」と答えた。グルーはその答えに納得し、日本政府はそ…
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東條内閣で公然と行われた「ハルノートのトリック」に対する吉田茂の怒り
吉田茂は首相の座を去った翌年(昭和30年)、「時事新報」の夕刊に「思出す侭」と題して自らの人生を振り返る思い出話を書き残している。外交官人生や戦後の政治家生活をわりと正直につづっていた。この連載記事…
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「ハルノート」はアメリカによる“最後通告”ではなかった
ルーズベルトの親電を遅らせて、実質的に意味のないメッセージに変えたのが佐官クラスの一存によるものだったという現実は、当時の日本社会の規律がいかに緩んでいたかを物語っている。それは結局、歴史上の汚点と…
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ルーズベルトの親電を10時間遅らせた通信課の命令が意味するのは天皇への背信
ルーズベルト大統領の親電がなぜ15時間近くも遅れてアメリカの駐日大使館に届いたのか。その内幕を丹念に見ていくと、日本の政治上の欠陥がいくつか浮かび上がってくる。 アメリカ側は日本時間12月7…
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12月8日未明、東郷茂徳外相は親電を持って天皇に拝謁した 真珠湾攻撃直前にあったこと
駐日大使のグルーが東郷茂徳外相に電話を入れたのは、12月7日の午後10時15分ごろであったという。その内容は、今ワシントンから着いたルーズベルト大統領の天皇宛ての電報を解読中だが、天皇に拝謁したいと…
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昭和天皇に向けられた米国の“戦争回避”アリバイ作りの電報
ルーズベルト大統領が昭和天皇に電報を送るという案は、国務省内部では早くから検討されていた。11月の終わりにはハルが素案を作り、ルーズベルトの元に届けていた。日本側の電文を解読していると、開戦の時期が…
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「ハル国務長官対野村吉三郎」騙し合いの攻防、日々のマジックを詳しく分析
天皇は不安と疑念で開戦の日(12月8日)までの日々を過ごすことになるのだが、その間に臣下の者はひたすら開戦のための準備を進めていた。東條内閣は開戦の報が漏れるのを恐れて徹底した秘匿工作を行っていた。…
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天皇の「絶対反対」が覆った12月1日の御前会議 開戦を全面的に容認
12月1日の御前会議はこれまでと異なって、いつも出席する6人の閣僚のほかに、7人の閣僚が加わった。日頃は開戦論議に口を挟むことのできない閣僚も天皇と椅子を並べたのである。これはむろん天皇の意思による…
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天皇を驚かせた海軍内部の反対論 重臣の3分の2は「対米忍苦、現状維持」
前回で触れたように、太平洋戦争の開戦に至る道筋を見て、4つの視点から新視点を出しておきたい。まず1の天皇の開戦決意はいつであったかという点だ。それには3段階があったと見てきた。開戦絶対反対、開戦・避…
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政治・軍事指導者たちの中で“真の忠臣”は誰だったのか?
天皇はハルノートを受け取ったにせよ、明確に開戦の感情を持つに至ったわけではない。大本営政府連絡会議に出席して、戦争の可否を決める軍事指導者たちのいきりたつ様子とは全く心情を異にしていた。「開戦やむな…
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東條英機はハルノートをどのように天皇に報告したのか
昭和天皇が東條英機首相から、ハルノートの内容について報告を受けたのは、11月27日の午後1時27分であった。東條がどのような内容を報告したのかは「昭和天皇実録」にも詳しくは書いていない。しかし、どの…
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開戦直前まで続いた天皇の心中の戦い 最後まで交渉にこだわるよう主張
昭和天皇は確かに政治、軍事指導者たちより冷徹に事態を見つめていた。対米外交に浮足立って、もう戦争以外にないといった興奮とは一線を引いていた。 その本心はどのへんにあったのか。繰り返すが、天皇…
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来栖三郎の名前は「米国を騙さないで」の意味に使われた
ハルノートを突きつけられた日本は、政治と軍事の指導者がまさに混乱状態になって戦争に突入していくのだが、その2週間足らずの道筋は極めて軽率で、そして感情的であった。ハルノートはどんな罠を仕掛けていたの…
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野村吉三郎大使は米国の“意図的な罠”にはまる役を演じさせられた
野村大使は海軍の出身だが、アメリカ政府内に多くの友人を持っていた。海軍の駐在武官のポストに就いたこともあった。海軍の中では紳士とされ、同時に法律にも詳しいというので軍政のポストに就くこともあった。駐…
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アメリカに読まれていた日本の動き 「そのあとは戦争である」と電報は伝えていた
日米間のだまし合いが具体的になったのは、昭和16(1941)年11月20日からと言っていいだろう。この日からほぼ1週間は、お互いに腹の探り合いに終始していくことになった。むろんその結果は見えていて、…
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米国は短波で放送される天気予報で日本の動きを把握していた
日本とアメリカがお互いにだまし合うという関係で、日米外交交渉は進んだ。昭和16(1941)年11月の半ばからである。太平洋戦争はこの年の12月8日から始まったとはいえ、実際には11月5日の御前会議以…