保阪正康 日本史縦横無尽
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ハルは第一印象で外務省が送り込んだ来栖三郎を「嘘つき」と見抜いていた
繰り返すことになるが、日本で対米交渉の内幕を知っている者は、外交関係者と政府関係者、それに大本営政府連絡会議に出席している政治、軍事の指導者しかいなかった。真珠湾を攻撃した日(12月8日)に東條の秘…
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米国は日本の軍事攻撃を察知し、開戦の責任を押し付ける罠も用意していた
日本は東條内閣になって、結局は戦争を選択することに決定したのだが、それ以降の外交交渉はむしろ失敗を前提に進めている感じになった。こういう状態はアメリカ側に筒抜けであった。国務長官のコーデル・ハルの「…
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東条英機は「自分に抗することはお上に逆らうことである」と考えた
天皇としてはいかなることがあっても避戦という立場にこだわっていたのが、「戦争やむなし」の心境に傾いたのは11月5日の御前会議の前後であった(昭和16年)。そしてこの時に12月8日が開戦の日だと知った…
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昭和16年11月5日の御前会議で天皇の避戦・開戦の心情は五分五分となった
昭和天皇の心理はどのように変化したのか。これまでの資料と、改めて刊行された「昭和天皇実録」などを参考に詳細に分析してみる必要がある。その前にもう一つ触れておかなければならないことがある。近代日本史を…
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天皇は東條英機から、もう戦争しか道はない、あなたも覚悟を、と要求された
東條内閣が天皇の意思に沿ってアメリカとの戦争を避け、外交交渉で活路を開こうとしたことは、たしかに事実であろう。「もし戦争を選択しなければ帝国の今後はどうなるか」といった項目を出席者で論じたとしても、…
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御前会議の前後から、昭和天皇は「やむを得ないのか」と思うようになった
日本が対米英蘭戦争に踏み切るのは、最終的には昭和天皇の意思によった。近衛文麿に代わって東條英機に大命を降下したのは、たしかに内大臣の木戸幸一とされているのだが、内々には天皇も、戦争を避けるには好戦派…
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反東條の動きがつぶされ、天皇も非戦から「戦争やむなし」となった
ハル国務長官の回想録を読むと、彼は東條英機陸相が首相に就任したことに相当驚いた様子であった。対米戦の強硬論者がなぜこの期に首相になるのか、日本が危険な賭けに出たように受け止めたであろう。回想録では、…
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東條英機の首班任命で出てきた「天皇は戦争を決意した」との判断
近衛に代わって東條英機が新しく首相になったことで、国の内外で、日本は戦争を選択したと判断する人物がいた。東條が天皇から、戦争政策の白紙還元を要求されて就任したことなど、一般には知らされていない。つま…
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御前会議の「白紙撤回」を条件に 東條を首班指名した歴史の大博打
陸軍の強硬派を代弁していた東條英機が、首相になったのは確かに不可解なことであった。 近衛が総辞職したときには、近衛も東條も次期首班は東久邇宮を想定する形で事態を見守っていた。近衛は東久邇宮に…
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東條英機陸相は自分もテロで殺されると怯え、近衛首相に強腰に出た
東條陸相の近衛首相への伝言は、国家が対米英蘭戦争を選択するための脅迫状のようなものであった。自分があなたにこれ以上会うと感情的になるから会わないと、伝言役の鈴木貞一企画院総裁に言わせているのである。…
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東條陸相は「感情を害するから会いたくない」と近衛首相を拒絶した
近衛首相と東條陸相の対立が最終的に決定的になったのは、昭和16(1941)年10月14日の夜であった。前回紹介したイギリスの「第二次世界大戦人名事典」の表現を借りるならば、まさに和平追求派が視野の狭…
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国際社会の東条英機への評価は「世間知らずの視野の狭い軍国主義者」
太平洋戦争の開始から81年が過ぎた。言うまでもなくこうした史実は、すでに「歴史」の中に吸収されている。それなのに今改めて、対米英蘭戦争の開始に至るプロセスをなぞるのはなぜか。このシリーズの意図すると…
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東条英機は「10万人の英霊に申し訳ない」で軍人240万人を死なせた
東條の妥協のない戦争への論理は、閣議でも声高に叫ばれ、対米交渉を継続しての解決は無理であることが確認された。近衛を小声で励ます閣僚もいたが、東條の戦争むき出しの言には、恐怖を感じるほどだったとの証言…
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近衛の方針をはねつけて中国への「永久駐兵」を言い張った東條
10月12日の近衛首相と4人の閣僚の会議は、対米交渉がまとまるか否かの論争でもあった。近衛と豊田外相は交渉に望みをかけるべきだと言い、東條はそれに猛反対した。海相の及川は特に発言することもなく、総理…
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「シビリアンコントロール」の模範ともいえる及川古志郎海相の答え
近衛首相はこの日(昭和16年10月12日)に和戦の決着をつけると覚悟を定めていた。そのことは対米交渉での一定の範囲での譲歩を主要閣僚と固めることでもあった。さらに詳しく言えば、東條陸相の主戦論をひと…
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東條陸相は近衛首相に「国家存亡の場合は目をつぶって飛び降りる覚悟を」と主張した
近衛首相と東條陸相の間で交わされた「戦争問答」は、歴史的な意味を持っている。どういうことか。 近代日本はアメリカのペリーの砲艦外交によって、鎖国から開国に至った。さらに270年続いた幕藩体制…
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世界が日米開戦を待ち望む一方で、ドイツのヒトラーは恐れていた
この段階で、日米戦争を嫌っていた避戦派にはどのような指導者たちがいたのだろうか。開戦を望んでいるアメリカのルーズベルト大統領らの政治指導者と、日本の東條陸相や統帥部の責任者や参謀らとは結果的に「同志…
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「天皇の意思に振り回されるものか」と暴走する東條たち強硬派
東久邇宮稔彦は近衛の考え方を踏まえて、聖慮は外交交渉での解決を望まれている、この交渉に当たっては中国からの撤兵、南部仏印からの撤兵、さらには独伊との三国同盟の形骸化など、日本側が譲歩しなければまとま…
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御前会議以降、東條英機を説得するために近衛文麿は皇族を使った
御前会議の決定以降、近衛内閣は交渉妥結を目指して極めて精力的に動いた。近衛自身、天皇の意思を十分に確認したのだから、とにかく前に進む以外にない。 「敵」は2つの勢力だ。ひとつはアメリカ側を納得…
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戦争に突き進んだ軍人たちの3つの本音
当時の日本社会にあって、国策の決定の最高会議はいうまでもなく御前会議である。しかしこの会議で甲論乙駁して国策が決まるわけではなかった。こと戦争政策に関しては、大本営政府連絡会議での決定を御前会議で追…