佐高信「追悼譜」
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多くの世界王者を育てた日本ボクシング界の名伯楽・米倉健司
自身もボクサーだったが、むしろ、ヨネクラジムの会長として多くのボクサーを育てたことが記憶されるべきだろう。 世界王者だけでも柴田国明、ガッツ石松、中島成雄、大橋秀行、川島郭志の5人を輩出した…
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岸田・安倍との”勝負に負けて相撲で勝った”溝手顕正のリベラルさ
河井克行、案里夫妻のとてつもない選挙違反事件は2019年の参議院議員選挙で同じ広島選挙区の溝手を蹴落として、広島県議だった案里を当選させようとして起こったものだった。自民党本部が河井陣営に1億500…
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坂本龍一と名物編集者だった父と脱原発の新右翼
新右翼といわれた鈴木邦男の「お別れの会」が開かれるのと時を同じくして坂本龍一が逝った。 この2人に共著があることに触れた追悼記事はなかった。その対話は2014年に出ている。 題して『愛国者の…
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知る人ぞ知る山形の俳人”孤島のランボー”とも呼ばれた斎藤慎爾
知る人ぞ知る深夜叢書社であり、知る人ぞ知る斎藤慎爾だった。ユニークな出版社の深夜叢書社からは上野千鶴子の句集『黄金郷』も出ている。自らも俳人である斎藤が若き日の上野の句を評価したからだろう。 …
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イトーヨーカ堂創業者・伊藤雅俊には成功者にありがちな押しつけがましさはなかった
いまから35年も前にインタビューしたのに伊藤が次の話をした時の印象は忘れられない。それほどに衝撃を受けた。 敗戦の年に21歳だった伊藤は戦中派中の戦中派で1割から2割の男性が戦争に行って亡く…
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大川隆法は幸福実現党をつくる前、三塚博や小池百合子や丸川珠代を応援していた
大川が師と仰いだ渡部昇一が亡くなった時、郷里の『荘内日報』に「大川の先生が渡部」と書いて批判したら、渡部ファンからブーイングが来た。残念ながら私は渡部と同郷なのだが、大川は渡部との対談で「渡部先生の…
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ノーベル賞文学賞を受賞した大江健三郎は文化勲章は辞退した
大江の死を知って、黒川祥子の『同い年事典』(新潮新書)を開いた。 1935年1月31日生まれの項に大江と成田三樹夫が並んでいる。悪役が似合った俳優の成田は山形県酒田市の出身で私の小、中、高の…
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本田宗一郎の声は豊田章一郎には届かなかったのだろう
いま、私の評伝選を出してくれている旬報社から、およそ20年前に『本田靖春集』全5巻が出た。私よりひとまわり上の本田は、私が敬愛するジャーナリストである。この全集の推薦者が五木寛之、澤地久枝、そして筑…
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西山太吉はメディアや岸田文雄に絶望して憤死したのだ
国家の嘘を暴いた元『毎日新聞』記者の西山太吉の死を各新聞を含むメディアがそれなりに大きく取り上げている。しかし、報じたメディアは西山の怒りがそのメディアにも向けられていることを知っているのだろうか。…
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公明党元国会議員・浜四津敏子の死はなぜ、2年もの間隠されたのか
旧姓高橋の浜四津と私は慶大法学部法律学科の同期生だった。2年余り前に亡くなっていたのに遺族の意向で党側が発表を控えていたというのだが、何か秘密めいたものが臭う。 そんな浜四津と、一度だけ、盗…
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政治記者・田勢康弘は自身の出版記念会に時の首相を招いて舞い上がった
同郷、同学年ながら、私はその死を惜しむ気にはなれなかった。一時は親しかった田勢が時の首相を招いて大々的な出版記念会をやったので、私はあるコラムで次のように批判した。1999年のことである。 <…
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革新リベラルを潰した「社会党のプリンス」横路孝弘
保守リベラルは「加藤の乱」を遂行できなかった加藤紘一が潰し、革新リベラルはその2歳下の横路が潰したと私は思っている。 東大法学部を卒業して弁護士となった横路は父・節雄の後を継いで「社会党のプ…
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好敵手だった”民族派”鈴木邦男と私の「3つの共通点」
2歳上の鈴木とは、2010年に『左翼・右翼がわかる!』(金曜日)という対談本を出したが、3つの共通点がある。 1つは姉の存在である。 彼自身が書いているところによれば、小学校の遠足に…
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ジーナ・ロロブリジーダは私とって世界一の美女だった
私にとって、世界一の美女は愛称ロロブリジーダだった。エリザベス・テーラーでも、イングリッド・バーグマンでも、マリリン・モンローでもなく、彼女だった。 1927年生まれのロロは、城山三郎や藤沢…
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「寅さん一家」がまた一人お別れ…佐藤蛾次郎はアラカンを師と仰いだ
「男はつらいよ」の寺男役、源公が亡くなった。佐藤でなければ出しえない味を出して、あのシリーズに欠かせない役者だった。 『朝日新聞』には珍しい下町記者、小泉信一の『おーい、寅さん』(朝日新聞出版)…
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「うる星やつら」や「おそ松さん」手がけた布川郁司の故郷への想い
カメラマンの山岸伸、高校以来の友人で、知る人ぞ知るベルウッドレコードの伝説のプロデューサーの三浦光紀、アニメーション業界のパイオニアの布川、そして私が会食したのは昨年の7月19日だった。いずれも山形…
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伝説の月刊誌『話の特集』を創った矢崎泰久という破天荒
最初の出会いは1976年の春だった。わが師の久野収が一橋出版から高校の『倫理・社会』の教科書の執筆を依頼され、弟子たちの他に中山千夏と矢崎を誘ったのである。 久野はその時「失礼だが」と前置…
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「山形の教え」を心に秘めながら芸能人を生きた、あき竹城の山形弁
あき竹城と会ったのは1999年の秋だった。 その年の10月31日にNHKの衛星第2放送で「おーい、ニッポン」 の「今日はとことん山形県」という特集企画があり、私は午後1時から8時までスタジオ…
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山田太一と木下恵介を結びつけた映画監督・吉田喜重
吉田は、小津安二郎にからまれたことがある。 世界の小津が59歳の時、酒席で新人監督の吉田にこんな言葉を投げかけた。 「俺はな、橋の下で菰(こも)をかぶって春をひさぐ夜鷹なのさ。吉田君、…
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班目春樹は「有害御用学者」の系譜に連なる 「専門バカ」ではなく「専門もバカ」
その名前をもじって、デタラメなどとも言われた原子力安全委員会の委員長が亡くなった。2011年3月11日の東京電力福島第1原発事故の時のその役職者である。 当時は民主党政権で、首相の菅直人に同…