語り部の経営者たち
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ヤマハ中田卓也社長<1>ツェッペリンに衝撃受けた中高時代
ヤマハは、100種類以上の楽器を製造する世界最大の総合楽器メーカーだ。専業が多い楽器業界の中にあって、世界的にも稀有な存在として知られている。ピアノの売上高では世界シェア第1位を誇る。 浜松…
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シンワアート倉田陽一郎社長<3>原因不明の奇病に襲われる
東大経済学部4年の倉田氏が就活に臨んだのはバブル真っただ中のころ。完全に売り手市場だった。 「投資の仕事がやりたかったので金融機関を回ったんですが、東大の学生は扱いが違うんです。向こうも必死に…
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シンワアート倉田陽一郎社長<2> 東大では美術やバイクに熱中
高校3年になってから一念発起して東大を目指し、理科Ⅱ類に見事、現役合格を果たした倉田陽一郎氏。大学では美術サークルに入った。 「幼い頃、内向的な性格だったボクは絵を描くのが好きで、両親に連れら…
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シンワアート倉田陽一郎社長<1>美術品取引で唯一株式上場
我ら一般人が美術品を入手するには、美術商が仕切る百貨店の展示会などで購入するケースがほとんど。売却する場合も美術商を通す以外に方法はなく、一方的に価格が決められてきた。一部の業者に牛耳られているこう…
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ポッカサッポロ國廣喜和武社長<7> 私は社長兼営業本部長
國廣喜和武は1998年9月、サッポロビール東京支社の特約店営業部長になった。着任して1週間目、ゴルフコンペで大手問屋の大物会長が、生まれて初めてのホールインワンを成し遂げてしまう。前例はなく、どう対…
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ポッカサッポロ國廣喜和武社長<5>問題解決の糸口は社外に
國廣喜和武がサッポロビールの富山支店長に就いたのは1995年10月。辣腕営業マンだった國廣は、管理職である支店長になった途端、精彩を欠いてしまう。富山支店には営業マンが5人いたが、意思の疎通を図れな…
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ポッカサッポロ國廣喜和武社長<5>初の支店長で試練に直面
決して酒に強いわけではないのに、サッポロ社内でトップセールスマンに上った國廣喜和武。嘔吐を重ねながらも、深夜まで営業先で酒を飲む。天真爛漫な性格と持ち前のバイタリティーとで、相手の懐に飛び込んでいく…
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ポッカサッポロ國廣喜和武社長<4> デキる営業マンの証し
1979年、サッポロビールに入社した國廣喜和武。最初の赴任地、名古屋から、東京の営業部に異動したのは1985年。2年間、大田区を担当した後、87年から渋谷区の家庭用と業務用の営業となる。 8…
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ポッカサッポロ國廣喜和武社長<3> 新人時代の企画が成功
1979年、横浜国大を卒業してサッポロビールに入社した國廣喜和武は、名古屋で営業に従事する。 当時、サッポロは千種区に工場を持っていたため、名古屋のシェアは3割にも達していた。問題は、清涼飲…
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ポッカサッポロ國廣喜和武社長<2>卒業前に担当教授が一言
横浜国大の4年生の時、國廣喜和武は就職先として総合商社を希望し、数社訪問していた。当時、横国大から総合商社に入る学生は多かった。 ところが「入社できるのは2浪まで。3浪はダメ」。どうやら総合…
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ポッカサッポロ國廣喜和武社長<1> 横国大「3浪しました」
「神奈川県立希望ケ丘高校に入学したころ、東大紛争があり東大の入試が中止されました。大学紛争は高校にも飛び火し、高校紛争も始まりました。自分たちも、通信簿をなくし、制服をなくしました。高校のすべての自治…
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ROBOT加太孝明社長<4> CMも映画も同じフィルムという発想
加太社長にとって、一番思い出深いのは、映画「Love Letter」(1995年公開)だという。ROBOTが初めて挑戦した長編映画で、加太社長は、この作品の包括的なプロデュースやマネジメントを担当し…
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ROBOT加太孝明社長<3> 大変なときこそ一番楽しいときだ
1989年、ROBOTに入社。当時はまだ社員15人程度の小さな会社で、第一企画とは規模が違い過ぎた。代理店から制作プロダクションに移るケースは珍しく、周囲の人たちにはかなり不思議がられたという。 …
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ROBOT加太孝明社長<2> 広告代理店でJTの「CABIN」を担当
加太社長が大学を卒業した1979年当時は、テレビメディアが隆盛を極めていた。テレビCMは単なる商品宣伝だけではなく、社会的に大きなメッセージ力を持つまでになっていた。 広告代理店の第一企画(…
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ROBOT加太孝明社長<1> 「つみきのいえ」がアカデミー賞に
ROBOTは、テレビCM、映画、アニメ、WEB、グラフィック、ゲーム、キャラクター開発など多彩なエンターテインメント事業を手がける制作プロダクションだ。 オモチャ箱をひっくり返したような楽し…
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玉寿司 中野里陽平社長<6> いい会社は社員が主体的に解決
15年前に倒産の危機に瀕した玉寿司だが、努力が実って2015年には全店が黒字化。2%台だった経常利益率も飲食業界では優良会社といえる7%台に乗せて、見事に息を吹き返した。 「仕入れ改革も重要で…
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玉寿司 中野里陽平社長<5> なれ合いを断ち意識改革を断行
ある日、中野里氏の元にJR系商業施設の担当者が訪れた。新宿にある商業施設のレストランフロアをリニューアルするにあたり撤退を求めてきたのだった。 「当時、その商業施設は若い女性をメーンターゲット…
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玉寿司 中野里陽平社長<4> 要石ひとつで局面が大きく変わる
中野里氏が初めて手掛けた「寿司ダイニング 太老樹」は、月を追うごとにどんどん売り上げが落ち、赤字が続いた。 「絶対に行列ができると思っていたのでショックでした」と中野里氏。原因を探るために給仕…
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玉寿司 中野里陽平社長<3> 「五感を満たす大切さ」を知る
中野里氏がアメリカ留学を決めたのも先人の言葉がきっかけだった。 「他の寿司屋に修業に行くべきかと旭鮨総本店の3代目・高野健明さんに相談すると、高野さんから『君が目指すのは本物の経営者か、本物の…
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玉寿司 中野里陽平社長<2> バイト先で味わった“絶望”
大学生になった中野里氏が入った少林寺拳法部は体育会の部活。 「練習が厳しい体育会なら心身が鍛えられるだろうと考えました。聞けば、少林寺拳法部はかなりハードだという。中学から続けていて黒帯だった…