喜怒哀楽のサラリーマン時代
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桂宮治さん<5>師匠に弟子入りを志願するも本気にされず
評判だった「ワゴンDJ」の仕事も、7年もすればつらくなっていた。 「セールスって、なくて構わないものを無理やり買わせるようなところがあるでしょ? 本当に欲しかったら、みなさん自分で電話をして問…
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桂宮治さん<4>専門書に載っている手法はすでに現場で実践
「あの人に任せれば売れる」――仕事ぶりは評判になり、全国からオファーが入った。交通整理はスケジュール担当社員の仕事。“売値”は1日5万円で、最もギャラの高い「ワゴンDJ」のひとりとなった。 「売…
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桂宮治さん<3>騙されないぞと身構える客を捕まえるトーク
役者の先輩から紹介されたのは、メーキャップアーティストやエステティシャンなどを派遣する会社だった。販売促進のデモンストレーションを担う部門もあり、企業の依頼を受けて新商品の発売や季節商品の拡販を支援…
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桂宮治さん<2>社員待遇で収入は都の平均年収より多かった
シロアリ駆除会社で社員待遇となってからは、会社の名刺のほかに提携している大手百貨店の名刺も持って営業した。そのために、百貨店の社員研修も受けている。バイトのときは目にすることのできなかった訪問先候補…
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桂宮治さん<1>シロアリ駆除のアポ取りバイトで社員待遇に
注目の若手噺家だ。NHK新人演芸大賞や国立演芸場花形演芸大賞銀賞を受賞し、BS日テレ「笑点特大号」の「若手大喜利」でも活躍。実力は折り紙つきで、独演会もすぐに完売になる人気者である。31歳で桂伸治に…
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上田勝彦さん<4>“境港の奇跡”でNHKに 魚食界のスター誕生
ベニズワイガニの資源の回復と消費の受け皿づくり、そして適正価格での流通。境港が直面した深い問題は、日本の港町ならどこでも抱えていることだろう。 「そういう問題を突き詰めると、漁業に支えられてい…
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上田勝彦さん<4>生産・加工・漁協3者が笑うメニュー開発
水産庁に入庁して10年目、転機が訪れる。境港漁業調整事務所への異動だ。 「資源管理の担当として境港に赴任したとき、ベニズワイガニの水揚げは底をつく寸前でした。減った資源をどうやって回復させるか…
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上田勝彦さん<3> 手段を選ばない国際捕鯨委員会の舞台裏
「一人、空いてるんだ。オマエ、行かないか?」 監督官にそう言われた異色のエリート官僚は、現場が命。断る理由はなかった。余った野球のチケットが配られるような口ぶりだが、行き先は南氷洋。東京から南…
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上田勝彦さん<2> 瀬戸内海の漁業調整は"100年戦争"状態
水産庁に入庁すると、半年間は試用期間。通称「お試し期間」といわれていて、素行や言動、適応力などがチェックされる。そのころ担当した仕事のひとつが、魚礁の仕事だった。 「魚礁は、海の中にある“魚の…
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上田勝彦さん<1>水産庁での午後3時 「魚、行ってきます」
トレードマークは、白長靴と首のタオル。長崎大学水産学部時代は、船長の家に泊まり込みで漁に出たという。漁師スタイルは筋金入りで、27歳のときに水産庁に入庁する。その後、豊富な魚の知識と抜群の料理の腕前…
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NHKとの約束守り独立に10年 インテリジェント小説を執筆
歴史的事件はジャーナリストを育てるといいます。僕のように、志を立ててこの道を目指したわけでない者でも、やはり現場で鍛えられました。 ワシントンへ赴任してほどなく、東西冷戦の終焉に立ち会い、そ…
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手嶋龍一さん<3> 米の凄腕記者が「あなたとは違うのよ」
自分のなかで何かが変わった――ホワイトハウス特派員として気鋭のアメリカ人ジャーナリストと一緒に仕事をしてそう思いました。彼らは皆、小さなメディアを振り出しに、NYタイムズや全国ネットのテレビ局にポス…
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手嶋龍一さん<3>英国大使の“恩返し”で大統領へのルートが
ワシントン特派員として政治・情報都市に赴きましたが、大統領への手がかりなど簡単にあるはずもなく途方に暮れたものです。「これでは手が出ない、帰してもらおう」と思っていました。そんな時、運命の電話が鳴っ…
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横須賀時代の“ネタ元”は戦争孤児の靴磨き仲間たちだった
横須賀時代に知り合った外国人バー「セントルイス」のジョージ・ヒラヤマは、アンダーグラウンドの世界にも通じていました。とりわけ「シューシャイン・ボーイ」の生態に詳しかった。敗戦日本の風俗を体現していた…
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手嶋龍一さん<1>進路を大家に詮索されるのが嫌でNHK入局
2001年、NHKワシントン支局長時代に起きた9・11テロ事件では、11日間の昼夜連続放送を担当した。06年に独立し、外交ジャーナリスト・作家として活躍。近著に「汝の名はスパイ、裏切り者、あるいは詐…
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サラリーマン社会の“常識”はプロレス界では“非常識”
97年で退職しましたが、JRAでサラリーマン生活ができたのはよかった。競技人生のその先のことまで考えて、社会人としても恥ずかしくないようにと教育をしてくれました。 JRAでは自分を引き取る時…
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小川直也さん<4>係長に昇進も仕事と柔道の両立に苦しみ
JRAには1990年から7年在籍し、7年目に係長の役職に就きました。ただ、在職中にオリンピックもあり世界選手権もあり、だんだん自分の中で仕事と柔道を両立することの難しさも感じるようになっていたんです…
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小川直也さん<3> オグリキャップにかつての自分を投影
JRAで働き始めたころはオグリキャップの時代。当時は、その走る姿を見ながら感じることがとても多かったです。 オグリは地方出身で、途中から馬主も変わり、雑に扱われていたところがあったじゃないで…
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JRA1年目の有馬記念は名馬オグリキャップのラストラン
警備の現場に出るのは有馬記念のときぐらいだったけれど、暴力団にも暗黙のルールがあるようで、ギリギリのラインで敷地内に入ってこないんですよね。来るのは一歩手前のところまで。 先輩に「大丈夫なん…
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小川直也さん<1> 明大卒業後JRAへ 配属先は競馬場の警備
高校時代から柔道を始め、世界王者に4度、1992年バルセロナ五輪では銀メダルを獲得した。97年にプロの格闘家として新日本プロレスのリングに立ち、以降もプロレスや総合格闘技の世界で活躍しているが、プロ…