喜怒哀楽のサラリーマン時代
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ダンディ坂野<5> 結婚もブレークもあの店で働いていたから
「35歳の秋にマツモトキヨシのCMに抜擢されてからは、火がついたように忙しくなりました。テレビ・ラジオ出演、打ち合わせもあれば地方ロケも入る。その間に雑誌や新聞の取材が……。年が明けたころにはバイトの…
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ダンディ坂野<4> 同じ店でバイトしていた彼女が奥さんに
「マクドナルドのアルバイトは毎年のように入れ替わります。とくに、学生は入れ替わりが激しい。ボクが働いていた阿佐ケ谷駅前店も例外ではありません。あれは、マネジャーになって2年目の4月か5月でした。一人の…
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ダンディ坂野<3> “年下上司”たちから重宝されたワケ
26歳のときにマクドナルドでアルバイトを始めたダンディさんが、マネジャー職に昇格したのは、「入店5年目ごろ」。月給は14万円から18万円台にアップしたと笑う。 「マネジャーになると、クルーたち…
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ダンディ坂野<2> 5年目でマネージャー昇格 時給1100円に
お笑い芸人を目指しながら、マクドナルドの阿佐ケ谷駅前店でバイトを始めたダンディ坂野さん。半年ほどでトレーナー職に昇格する。アルバイト新人たちの教育担当も任されることになった。 「マクドナルドの…
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ダンディ坂野<1> 阿佐ケ谷駅前マックで10年間アルバイト
芸能界には歌手でもお笑い芸人でも“一発屋”と呼ばれる人々が少なからずいる。「ゲッツ!」を連発して、爆発的に売れたダンディ坂野さんもそのクチだろう。一時はテレビでこの決めゼリフを耳にしない日はなかった…
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小林至さん<5>「ホークス兼任GMは王会長から直々に指名」
「取締役として球団経営を手伝って欲しい」 「実は、大学の教員もやってまして……」 「兼務でいいから」 孫正義社長と会ったその日にこう伝えられました。着任したのは、ダイエーからソフト…
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小林至さん<4> 出会って3時間 孫社長「取締役になってくれ」
コロンビア大学経営大学院(MBA)とケーブルテレビ局勤務の都合7年間の米国生活を終え、2000年12月に帰国しました。 留学前に思い描いていたような凱旋帰国ではありませんでしたが、幸いにもコ…
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小林至さん<3> MBA取得し米テレビ局に年俸6万ドルで就職
ニューヨークに渡ってまず驚いたのが、コロンビア大学経営大学院(MBA)の学費の高さでした。 学費だけで約600万円。教材や生活費を足すと、相当に節約しても、卒業までには1000万では足りませ…
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小林至さん<2> 伊良部の球に「同じ人間じゃない」と愕然
「あの人なら何とかしてくれるかも」と広島カープの渡辺秀武スカウトに紹介されたのは、ロッテ監督の金田正一さんでした。 直々に入団テストを受け、晴れて合格。ところが、父は相変わらず猛反対でした。仕…
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小林至さん<1> 東大野球部員は就職活動というものをしない
わずか2年でプロ野球・ロッテを自由契約になったが、気持ちを切り替えて米コロンビア大学経営大学院(MBA)に入学。ソフトバンクホークス取締役などを経て、現在は江戸川大学(千葉県流山市)で教壇に立つ。そ…
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半藤一利さん<10>「昭和天皇独白録」が編集者として最後の仕事
松本清張さんとは思ったことをぶつけ合いましたが、嫌われなかったですね。面白い人でした。ただ、戦後日本の怪事件に迫った「日本の黒い霧」のネタ元は、何度聞いても明かさなかった。「それは君、うふふふ」と笑…
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半藤一利さん<9>司馬遼太郎は2回担当してから外れた
司馬遼太郎さんは週刊文春の「直木賞作家特集」をお気に召さなかった。1960年のことです。あの方は終生、私に「半藤さんには、最初にお会いしたときから、うんっと褒めてもらったからねえ」と嫌みを言うわけで…
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半藤一利さん<8>「日本の一番長い日」映画化権は120万円
1965年、35歳の時に発売した「日本のいちばん長い日 運命の八月十五日」は、売れに売れましたね。ただ、出版部から「おまえたちの名前じゃ売れない。太平洋戦争を勉強する会編? もっと売れない。名前を借…
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半藤一利さん<7>「日本のいちばん長い日」は「終戦日の当事者座談会」から生まれた
1962年、「文藝春秋」編集部にいた私は、2年後の東京オリンピックに向けて、大座談会を企画しました。日本人で存命の元五輪選手を全員呼んで、いかに活躍したか話を聞くというもの。ただ、人数が多くて一度に…
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半藤一利さん<6> 「デモは終わった、さあ就職だ」
週刊文春時代の1960年、安保闘争は会社の裏でも起こっていました。当時、会社は銀座の旧日航ホテルの前にありましたから、裏の日比谷公園で騒がしくしているわけですよ。誌面では、〈アイゼンハワーは明治天皇…
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半藤一利さん<5> 井上靖さんのひとことで決まった芥川賞
1956年3月、「太陽の季節」が刊行されました。同年1月、石原慎太郎さんはこの作品で芥川賞を受賞しましたが、私は、そのときの選考委員会のお手伝いに出ていました。 まだ25歳でしたから、2人い…
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半藤一利さん<4> 太平洋戦争の関係者300人以上を取材
入社3年目の1955年ごろからは、時事新報社の海軍記者だった伊藤正徳さんを手伝い、昭和史の偉人や関係者を取材する日々でした。私の取材原稿は何度もボツになった。思い込みや人づてに聞いたことを自分の体験…
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半藤一利さん<3> 漫画家の加藤芳郎に渡された秘蔵のエロ本
坂口安吾さんとは会社に入って8日で出会い、それから2年、付き合いが続きました。 安吾さんは野球がうまかったですね。ポジションは三塁手。私は野球未経験でしたが、ボート部経験を買われて「おまえは…
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半藤一利さん<2> 入社早々に坂口安吾の自宅で1週間“同居”
入社当時の文藝春秋は社員が70人しかいませんでした。それなのに会社が上り調子で、出す本は何でも売れましたから、もの凄くこき使われましたね。4月1日入社なのに、「おまえたち、どうせやることないだろう。…
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半藤一利<1> 東京新聞の試験会場に迷い文藝春秋を受験
1953年、東京大学卒業後、文藝春秋に入社。41年間、雑誌の編集者として会社員生活を送った。近著、「文士の遺言 なつかしき作家たちと昭和史」(講談社)では、坂口安吾、司馬遼太郎、松本清張らの流行作家…