喜怒哀楽のサラリーマン時代
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荒俣宏さん<4>電算化で困った海の男たちの“お付き合い”
そういえば、こんなこともありました。日魯では、5月1日から衣替えになり、半袖シャツがOKになる。「カッコいいのを買って先輩を見返そう」と洋服屋さんを見て回ると、ピンクの香港シャツがあった。 …
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荒俣宏さん<3> 選抜試験でとことん不正解を書いたはずが
業界用語もすごかったですね。注文した書類と照らし合わせながら商品を船に積み込もうとしても、書類に何が書いてあるかサッパリ分からない。先輩が話す単語も分かりませんでした。 たとえば、書類にあっ…
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荒俣宏さん<2>ダメ出しの連続 自信が根底から突き崩された
日魯漁業での配属は資材部でした。船員の食料を船に積み込んだりするのが、主な仕事。そういう単純作業は好きでしたし、人と話さなくていいからとにかく楽。こちらは食料を買う側なので、相手にペコペコしなくてい…
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荒俣宏さん<1>「日魯漁業に入社して1カ月はまだ学生でした」
小説「帝都物語」は350万部を超えるベストセラーで、「世界大博物図鑑」はサントリー学芸賞に。作家や翻訳家、博物学者にして妖怪評論家の顔もある。マルチな才能を発揮する荒俣さんは、慶応義塾大学法学部を卒…
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逢坂剛さん<10> 原作にない悪役でヒットした「MOZU」
2014年にテレビドラマ「MOZU」となった「百舌の叫ぶ夜」は、30年以上前の1986年に本になりました。文庫はそれから細く長く品切れにもならず、重版が掛かっています。もう30刷ぐらいになるんじゃな…
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逢坂剛さん<9> 31年と3カ月で博報堂を退職
直木賞を取れば、まあ、だいたい飯は食えるといわれます。池波正太郎さんからも、「そろそろ辞めどきだ」とアドバイスされました。それでも10年間、二足のわらじを履き続けたのです。 会社を辞める気に…
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逢坂剛さん<8> 年始の挨拶を受賞のお祝いと勘違い
1987年に直木賞を取っても、社内の対応は全然変わりませんでした。嫌みなことを言うヤツもいなければ、ちやほやするヤツもいない。たまに「作家としての逢坂さんに得意先からこんな依頼が来てるんですけど、ど…
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逢坂剛さん<7>作家になるのは簡単、あり続けるのが難しい
オール讀物推理小説新人賞を取っても、博報堂を辞める気はさらさらありませんでした。趣味道楽で書き続けられればいいと思っていたんです。オールの編集者にも「新人賞を取ったぐらいで会社を辞めないでくださいね…
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逢坂剛さん<6>直木賞応募作は池波正太郎と結城昌治に酷評
のちに直木賞を受賞する処女作「カディスの赤い星」を世に送り出すため、逢坂さんは小説雑誌に作品を送り始めた。書くのは土日の2日間。平日は業務をこなした。そして1980年、オール讀物推理小説新人賞を受賞…
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逢坂剛さん<5>暇つぶしで書いた直木賞作品
PRの現場にいたときは、複数の得意先を抱え、酒を飲んだり麻雀したりと忙しかったんです。でも、広報室では“得意先”が博報堂の1社だけとなり、夜の残業もそれほどありません。存亡の機の時はバタバタしていて…
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逢坂剛さん<4> 家宅捜索が入る非常事態で広報に異動
1973年12月、博報堂はオーナー一族の社長が退任し、翌年1月に外部から社長が招聘された。この人事が騒動の引き金となる。翌75年7月、社長は副社長に降格し、国税庁長官だった近藤道生氏が新社長に就任。…
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逢坂剛さん<3>「木島則夫モーニングショー」でPR
パブリシティーは、米国から持ち込まれた新しい手法でした。タイムとスペースを買って正面から宣伝する広告と違って、それと分からないようにメディアを動かし大衆に働き掛ける裏方の仕事。新商品やイベントの情報…
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逢坂剛さん<2> 博報堂の新人研修で自衛隊に体験入隊
博報堂に入ったのは1966年です。「40年不況」の影響で、採用人数は例年よりも極端に少なかった。毎年130人ぐらい入っていたのに、その年は35人でしたからね。 ただ、少人数だから研修も綿密に…
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逢坂剛さん<1>「天声人語を書きたい」と言って朝日は不採用
1987年に「カディスの赤い星」で直木賞を受賞した逢坂剛さんは、広告代理店・博報堂の元社員。受賞後も10年間はサラリーマン生活を続けた。「MOZU」のタイトルでドラマ化、映画化された「百舌の叫ぶ夜」…
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塚崎公義さん<5> さまざまな部署経験は組織にプラス
2005年、塚崎さんは24年間に及ぶサラリーマン生活に別れを告げた。銀行で培った金融の知識を大学の教員の立場で生かそうと考えたのである。 「あらためてサラリーマン時代を振り返ってみると、実にさ…
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塚崎公義さん<4>突然“自分の銀行が合併”のニュースが…
1990年代後半、日本で銀行や証券会社の経営悪化や倒産が相次ぎ、金融危機が深刻化した。北海道拓殖銀行(97年)、日本長期信用銀行(98年)、日本債券信用銀行(同)などが次々と破綻したのだ。 「…
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塚崎公義さん<3> 初の海外勤務 香港でぶち当たった壁
1997年、証券投資調査部時代に、初の海外勤務の辞令が出る。香港にある現地法人の役員としての出向だった。担当は、調査業務と投資顧問業務。 「『現地スタッフが言うことを聞かない。君が行ってマネジ…
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塚崎公義さん<2> 入行4年目。米国留学で性格まで変わった?
名古屋支店では3年間過ごした。この間、塚崎さんはみっちり英語の勉強をし、社内留学試験を受ける。銀行が海外展開を進めていた時期だったからだ。 「留学先はロスのUCLAのビジネススクールです。入行…
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塚崎公義さん<1>日銀の金庫はすごくデカくて札束がどっさり
ラジオや新聞、多くの著書で日本経済を鋭く斬る久留米大学商学部教授の塚崎公義さんは、元銀行マン。1981年、東京大学法学部卒業と同時に日本興業銀行(現みずほ銀行)に入った。当時は“天下国家銀行”と呼ば…
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亀渕昭信さん<5> 自分で決めたことは社長を辞める時だけ
地方ローカルのラジオ33局を結ぶ「亀渕昭信のお宝POPS」は、今年1月で3年目を迎えた。亀渕さんは、この番組を「終活番組」とも呼ぶ。 「私が個人的にコレクションしてきたレコードやTシャツを希望…