喜怒哀楽のサラリーマン時代
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森田勉<5>怖いもの知らずだったのはアルバイトのおかげ
私がホテルマン時代に不良債権の回収をできたのは、ブルドーザーを日本に持ってきた“創始者”である父親の鬼のような性格、仕事ぶりを目の当たりにしていた影響も大きいと思います。言われたことを指示通りにやっ…
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森田勉さん<4> 新宿ハイアットでトップセールス
ホテルオークラは世界に誇るホテルというプライドを今も持っています。ただ、8年いて、小田急電鉄が「新宿にホテルオークラをつくる」というので移ることになりました。それが今のハイアットリージェンシー東京で…
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森田勉さん<3> 宿泊キャンペーンでぶっちぎりの1位を獲得
ホテルオークラ時代に2回、私の前に上司を並ばせたことがあります。1回目はこれまでお話しした不良債権の回収で暴力団などややこしい相手と交渉した時。丁々発止の様子を列をなして見に来たのです。 2…
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森田勉さん<2>結婚式に「前金制度」導入し取りっぱぐれをなくす
ホテルオークラでは、ややこしい人の不良債権を5年で10億円回収しました。 みなさんは意外に思うかも知れませんが、当時は結婚式の代金も不良債権になっていました。年間10回ぐらいはありましたね。…
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森田勉さん<1>総会屋、右翼、暴力団相手に不良債権回収
リーゼントの長く伸びたヘアスタイルがトレードマークの森田さんはホテルオークラの出身。ホテルマン時代には数々の伝説をつくった男として知られる。 東京農業大学を卒業してホテルオークラに入ったのは…
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宮本隆治さん<5> 西郷輝彦さんの至言が退職の決め手に
NHKは54歳で役職定年を迎える。その時点での選択肢は2つ。そのまま残って60歳の定年まで仕事を続けるか、スパッと退職するかだ。宮本さんは57歳になる2007年、後者の道を選ぶ。 「当時は60…
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宮本隆治さん<4> 転勤で出会った人々が1冊の“貯人通帳”に
「初任地・帯広放送局を振り出しに、京都、東京、福岡を経て、95年に再び東京へと、4回の転勤を経験しました。NHKのアナウンサーは“転勤商売”といえます。こうした転勤族が地元に溶け込むコツは、いわば“町…
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宮本隆治さん<3> 東京で思い知らされた全国放送の怖さ
帯広、京都で鍛えられたのち、1980年6月から初の東京アナウンス室勤務となる。29歳の時だ。 「同期17人の中で、最初に“上がって”きました(女性3人は地方勤務なし)。地方から東京勤務になるこ…
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宮本隆治さん<2> 取材は朝4時半集合で目が覚めたのは8時
帯広放送局は1977年まで。同年から京都放送局に転勤し、80年までこの地で過ごす。 「それまでは、ラジオで若者相手のディスクジョッキーとしてワイワイやっていたのに、京都ではそうはいきませんでし…
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宮本隆治さん<1> どうしたら出番を増やせるか考え続けた
ご存じ、元NHKアナウンサー。紅白歌合戦の総合司会を6年連続で務めたのをはじめ、「のど自慢」やニュース番組も担当した看板アナだった。2007年に定年退職後はフリーで活躍。「~歌のワイドショー~音楽の…
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立川談慶さん<4>師匠談志は私のような弟子も認めてくれた
1991年4月にワコールを退社し、翌月には立川流に入門しました。 ワコールから芸人になった後輩には髭男爵のひぐち君(42)もいて、会社を辞める時に上司から「8年前にも青木(幸二=本名)という…
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立川談慶さん<3>退社を決断をさせたカンニング竹山の本気
福岡支社時代は、ワコール青木の名で芸人とサラリーマンを掛け持ちしていました。 1990年に吉本興業が福岡に進出しまして、その1期生として「福岡よしもと」に所属していたのです。同期には、ター坊…
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立川談慶さん<2>「ワコール青木」の芸名で二足のわらじ
ワコールに入社して最初に出会った上司は、超パワハラでした。20万枚の値札を横浜から新宿まで運ばせたり、自分の担当店のバーゲンを新人の私一人にやらせたり。新著にも書きましたが、本当に「めんどうくさい人…
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立川談慶さん<1>最初の上司は体育会系の“超パワハラ”
千葉の津田沼にあるワコールの独身寮。入社1年目の私は、夜11時過ぎに寝るだけのために帰る毎日でしたね。 あれは5代目古今亭志ん生だったか、それとも3代目古今亭志ん朝だったか、「唐茄子屋政談」…
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小椋佳さん<5> 痛快だった部下10人との新商品開発
1986年、国際金融部に新商品を開発するセクションができました。金利も商品も横並びの時代が終わり、各銀行が独自商品の開発に取り掛かったころです。新組織は「国際財務サービス室」と名付けられ、40代にな…
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小椋佳さん<4>「私募債」セールスで全国行脚
入行8年目の1975年、トレーニーの第1号として米メリルリンチ証券に派遣されました。インベストメントバンキング(投資銀行業務)を勉強してこいというわけです。「いずれ金融業は垣根がなくなる」と主張して…
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小椋佳さん<3> 毎日ご馳走になった資生堂担当時代
銀座支店で内部事務をやったあとは、銀座6丁目界隈の60社の担当を経て、資生堂1社をグループごと担当することになりました。 勧銀にとって、資生堂は大変なお客さま。戦前は借金の多い会社で苦しい時…
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小椋佳さん<2>手柄を上司に渡せばプラスで返ってくる
銀座支店に赴任し、内部事務をやっていた1年坊主のとき、事件が起きました。お客さんから電話があり、土曜日に会社の通帳とはんこを全部盗まれたというのです。恐らく犯人は月曜日の朝一番に預金を引き出しに来る…
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小椋佳さん<1> 銀行員になると決めたとき「くだらない人生になる」と悟った
大組織に勤めるサラリーマンって、くだらないですよね。幸いにも僕は5年おきぐらいに新しいことをやらせてもらっていましたから、面白いときもありました。でも、日常はつまらないでしょう? 上野で料理…
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蟹瀬誠一さん<5>「準備ができている人にチャンスはくる」
TIME誌を3年で辞めた理由は、ニューヨーク本社編集部で研修をしたことが大きかったですね。集まっている編集者たちが素晴らしい書き手ばかりで、ジャーナリストとしての見地もずばぬけていました。そのとき「…