喜怒哀楽のサラリーマン時代
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ジャンポケ斉藤慎二さん<2>稼ぎは多くてもつまんない人生
教育関連企業の営業マンとして入ると、すぐに新人研修がありました。すると近くの部屋から「バカ野郎!」とか罵声が飛び交っている。その時は「これってヤバイ会社なの?」と思ったけど、経済の専門誌でも普通に紹…
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ジャンポケ斉藤慎二さん<1> このままではマズイと職探し
今はお笑いをやっていますが、もともと、僕は役者志望。それがお笑いになったのは、短いながら営業マンをやって、ある上司と出会ったことがキッカケです。 父親はNTT社員、母親は小学校の教師。両親と…
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露木茂さん<5>日航機墜落事故後に現場ひと筋と腹くくった
1982(昭和57)年3月、ボクは青春時代をともに歩み、17年間お世話になった「小川宏ショー」を卒業します。翌日から、頼近美津子さんと“昼のニュース”の担当になって、そこから数年は何となく“自分の番…
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露木茂さん<4> 番組降板の日、あの歴史的大事件が起きた
ボクがアシスタントになった「小川宏ショー」は次第に視聴率が伸び始め、午後の「3時のあなた」、夜の「スター千一夜」と並んで、フジテレビの生放送の看板番組に育っていきました。 こう言うと、ボクの…
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露木茂さん<3> 上司からのプレッシャーに開き直った結果
1964年、東京五輪が行われたその年、NETが「木島則夫モーニングショー」をスタートさせ、大成功。ワイドショーブームの火付け役となった。これに刺激を受けたフジテレビは翌65年春、木島と同じNHKアナ…
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露木茂さん<2> 52年前、東京五輪で選手の“人さらい”担当に
1963(昭和38)年4月、フジテレビ入社。同期は3人、初任給は3万円だった。同局は開局5年目で、人手不足のため3月から研修が始まり、4月末には番組の提供アナウンスを読まされたという。 ◇…
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露木茂さん<1> 教授が「ヤクザな業界」と言ったテレビ局
昭和を代表する民放アナウンサーの一人だ。フジテレビ入社は、1963(昭和38)年。東京五輪の前年で、東海道新幹線や高速道路の工事などが急ピッチで進み、日本中が好景気に沸いていた時代だった。 …
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森朗さん<4>転職を相談した課長が3分考え言い放った一言
36歳で日鉄建材工業(現・日鉄住金建材)を退職し、気象予報士に転身しました。 悩みながら課長に相談すると、「おまえは今、バッターボックスに立った。取りあえず、空振りしてもいいからバットを振っ…
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森朗さん<3>営業時代は「すみません」と頭を下げてばかり
昭和61(1986)年に土木営業に異動になった僕は、官公庁にガードレールなどを売る仕事をしていました。 そして時代はバブル景気へと突入していきます。僕は、父と同様にお酒は苦手なのですが、接待…
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森朗さん<2> 月の残業が300時間 椅子を並べて寝ていた
日鉄建材工業(現・日鉄住金建材)で最初に配属された川崎製造所の経理課にも、コンピューター化の波が押し寄せてきました。1980年代初めのことです。 パソコンがまだマイコンと呼ばれていた時代、僕…
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森朗さん<1>オヤジのコネの就職面接で追い返された
「何しに来たんだ! 出直してこい」 就職試験で最初に言われた言葉がこれでした。今にして思えば自分が甘かっただけですが、会社って厳しいところだと思いましたね。 気象予報士になる36歳まで…
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真山仁さん<5> 組織の中で優秀になろうとは思わなかった
職業メリットを生かして小説家になろうと思っていたので、新聞社に長くいるつもりはありませんでした。最初から10年をメドにし、実際に在籍したのは2年ちょっと。予定が早まったのは、踏切事故をめぐる記事がき…
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真山仁さん<4> 市役所じゅうにバレた平日のスキーデート
新聞社時代に困ったのは、こちらの動きが筒抜けになることでしたね。当時は、岐阜支局の仕事をしながら、関通信部の2市14町村も受け持っていました。その担当エリアでの行動がバレバレだったんです。 …
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真山仁さん<3>「落とすために何でもやる」というプライド
新聞記者はプライドが高い人が多いですよね。みんな天職だと信じて就職し、誇りを持って仕事をしている。それはそれで悪いことではないかもしれないけど、偉そうに構えていたってネタは取れません。煙たがられるだ…
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真山仁さん<2>業界のオキテと戦っていてもネタは取れない
私が入社した当時、中部読売新聞は朝刊を1カ月1000円で販売していました。他社は朝夕刊セットで2000円台。「読売は不当に安い」と批判され、新聞協会にも加盟できていなかったんです。 かつて読…
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真山仁さん<1> 縁もゆかりもない東海地方で新聞記者に
1987年に同志社大学を卒業して入ったのが、中部読売新聞(現在の読売新聞中部支社)でした。大学は1年留年しているんです。“現役”のときは就職活動がうまくいかなくて、卒業を延期したんですね。 …
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森永卓郎さん<5> 何がベストか人生終わるまで分からない
「経済アナリスト」になった契機はJT入社3年目に日本経済研究センターという日経新聞の外郭のシンクタンクに出向したことでした。JTのほかに60くらいの会社から、半分勉強のために出向してきていた。そこで経…
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森永卓郎さん<4> 年収300万円なのに所沢に一戸建てを購入
JTに入社して3年目の1982年から出向していた経済企画庁時代、人生の大きな転機がありました。 当時はあっちこっちの部署に顔出して、人の仕事にまで首突っ込んでいたんですね。たとえば「経済モデ…
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森永卓郎さん<3> 研究者に求められた“2つのR”とは
サラリーマン時代に尊敬していたもうひとりは、三和総合研究所(現・三菱UFJリサーチ&コンサルティング)の当時の社長、松本和男さん。彼は三和銀行での頭取争いに敗れ、三和総合研究所を立ち上げたんです。そ…
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森永卓郎さん<2> 危機管理のため机で酒を飲んでいた上司
尊敬していた上司は2人いました。ひとりは、1982年に出向した経済企画庁時代の中名生隆さん。当時は計画官(課長)でした。毎日、午後5時半になると引き出しからウイスキーを出して飲むんです。でも、これが…