保阪正康 日本史縦横無尽
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5.15事件の法廷模様 陸海軍には甘く民間人に厳しい判決が
5・15事件は陸軍側の士官候補生、海軍側の青年士官らの異様に感情的な法廷模様と違って、民間側の参加者には冷酷そのものだった。軍人側は言いたいことを存分に述べる機会が与えられた。決行者たちは自分の命は…
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暗殺された犬養首相の家族が罵倒される世の中になった
昭和6年から11年までのわずか6年の間にテロとクーデターが猛威を振るい、暴力が前面に出てきたことにはいくつかの理由がある。もっとも大きな因は大衆がこの暴力を支持したことである。そうでなければテロやク…
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2.26事件からわずか6年でテロやクーデターが主役となった
2・26事件以前にもいくつかのテロやクーデター(未遂)があり、その過激な政治行動は次第にエスカレートしていった。こうした暴力行為は初めは恐る恐る起こり、やがて大胆になっていくのが常で、昭和初期もまた…
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テロ時代の幕開け「郷詩会」の国家改造が招いた血盟団事件
昭和6年8月26日、東京・青山にある日本青年館で「郷詩会」なる会合が開かれた。文学青年風の集まりに思えるが、その実態は違った。陸軍の青年将校、海軍の革新派士官、それに民間側から北一輝系、井上日召系、…
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警視庁の監視を受けて「戦って、死ぬ」という檄文を撒いた
死のう団事件のケースは昭和初年代の特高警察の暴虐の姿でもあった。カナトクの警察部長は本省に栄転し、特高課長は自殺している。拷問した刑事たちは詫びたとはいえ、転出、あるいは配置換えになり、死のう団本部…
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2.26事件の青年将校は密かに死のう団に協力を求めた
特高課長の池田は遺書を残した。退職金は自分の家族と拷問を受けた死のう団の女子医専の学生に送るように書かれていた。その後、示談交渉は全て止まった。本部に残ったのは14、15人の団員となったが、彼らは血…
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団員たちに泣いて謝罪したあと山中で自殺した特高課長
神奈川県警察部と死のう団の間では、7カ月近くにわたって示談交渉が続いた。警察部長の相川勝六ら幹部は「部下の失敗」と逃げたが、江川桜堂と死のう団は「いや、そうではない。幹部たちの責任を巧みに逃げている…
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神奈川県警は「死のう団」に譲歩しつつ嫌がらせを続けた
昭和8年10月16日、死のう団の盟主である江川桜堂は団員の母親などと共に、横浜検事局に特高課長や特高課員など10余人を不法監禁、人権蹂躙、傷害で訴えた。この告発状は新聞にも詳しく報じられた。例えば当…
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「カナトク」は女性団員を裸にして性的な拷問を行った
彼らは異様な風体で「死のう、死のう」と叫びながら、30人ほどで行進を始めた。死のうの意味は、日蓮の唱える「不自惜身命」を現代風に表した語だというのであった。彼らは鎌倉の鶴岡八幡宮を出発してまもなく警…
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5カ所で5人が割腹自殺を試みた「死のう団」事件の背景とは
昭和という時代にはさまざまな事件が起こった。その中には時代を反映した犯罪も少なくない。貧しさゆえの犯罪、政治的思惑が絡んだ犯罪、あるいは男女関係のもつれなど、この時代の特徴が浮かんでくる。今回からは…
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特攻隊員に「爆弾を投下したら逃げろ」と囁く下士官もいた
太平洋戦争下で特攻死した搭乗員たちはどれほどいたのだろうか。実はその詳細はわかっていない。特攻隊でなくても、そのような死を受け入れた搭乗員もいたであろうし、逆に特攻隊員であっても死を受け入れなかった…
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講和のため日本人1400万人を特攻で死なせると大西は言った
先に述べたように、2大汚点のひとつである「特攻は全員が志願した」との言い方は、特攻を生み出した責任が隊員個人に転嫁されることを意味する。同時に隊員は「救国の英雄」呼ばわりされていく。国を挙げてのこの…
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特攻作戦への歴史的な批判を恐れた「軍事指導者」たち
特攻作戦には2つの誤伝がある。ひとつは海軍の場合、第1航空艦隊司令長官の大西瀧治郎の発案によるとの説、もうひとつは全員が自ら特攻を志願したという説。なぜこの説が流布してきたかといえば、特攻作戦が20…
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戦後に自決 特攻作戦の責任者だった大西瀧治郎の矛盾と混乱
陸軍の特別攻撃隊による体当たり攻撃が実行される前に、海軍では第1航空艦隊司令長官の大西瀧治郎(写真)が特攻を主導していたというのが一般的な受け止め方だった。実際に特攻作戦が現実化していくのは昭和19…
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出撃の前に失禁、錯乱…腰が抜けて飛行機に乗れない者もいた
平成10年のころ、千葉県のある市での講演の後、講師控室に老人とその付き添いの娘さんが訪ねて来た。杖をつく姿は生気を失っている。自ら死が近いことを認め、「以前、あなたの特攻隊の遺書について分析した書を…
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「神州不滅」と書き「護国の鬼」となって自己を抹殺した
特攻隊員の最期の姿はよく「潔く」という言葉で表現される。しかし彼らが自らに与えられた任務を受け入れるときの心理は人によって異なっていた。特攻隊員の手記には自らを「護国の鬼」、あるいは「皇国を守る尖兵…
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のみ込みが早い学徒兵たちは都合のいい特攻隊員だった
私はこれまで、特攻隊員の遺族、出動命令の出る前に終戦となった隊員、隊員の乗る特攻機の整備兵、基地で隊員無線を聞いていた参謀など多くの関係者から話を聞いてきた。 人間魚雷「回天」で連日訓練に励…
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クリスチャンの特攻隊員が密かに残した手紙に戦時下の心理
私の取材メモから、もう一人の特攻隊員の残した遺書について触れておきたい。かつて定期的に続けていた昭和史講座で、いつも最前席に座って講義を聞いていたAさんは、ある大手銀行を定年退職した温厚な人物であっ…
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「心残りはアメリカを見ずに死ぬことさ」と言い残した学徒特攻隊員
私は特攻隊員・上原良司の遺書が、この作戦の無慈悲で残酷な意味を根本から問うていると考えている。アメリカの艦船に突入した時、彼はどのような言葉を呟いただろうか。実は司令部の参謀たちは、学徒の特攻兵たち…
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特攻兵士が残した「全体主義の国家は必ず敗れ去ります」の言葉
餓死、玉砕、特攻は、太平洋戦争の指導者たちの戦争責任である。その責任を曖昧にしては、亡くなった兵士たちに申し訳ない。戦争自体の批判や肯定などとは全く別に、あのような戦争指導を陸海軍の指導者や軍令部門…