保阪正康 日本史縦横無尽
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大久保らは天皇の権威を自分たちの権威に組み込んでいった
大久保利通は自らの孤立を防ぐため、木戸孝允と板垣退助を再び参議に加えて、指導部を固めようと考えた。このような意図で行われたのが、明治8(1875)年2月の大阪会議である。といっても3人が話し合っただ…
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大久保利通は3年前の事件を蒸し返す自説で台湾に出兵した
大久保利通の取り組んだ2つの対応策について語っておきたい。ひとつは明治7(1874)年5月の台湾出兵である。この軍事行動は大久保の判断にもとづくといってもいい。その因は明治4年11月に琉球の漁民が漂…
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板垣と後藤は民撰議院設立の意見書提出 大久保利通に対抗
征韓論で下野した板垣退助と後藤象二郎は江藤新平を加え、そのほかの5人とともに明治7年1月、民選議院設立の意見書を発表している。その中で彼らは、天下の公議が大切であり、それには「民選議院ヲ立ツルニ在ル…
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江藤新平は明治7年「佐賀の乱」で処刑 さらし首にされた
征韓論に敗れて下野した西郷に、やはり下野した板垣退助が「いずれまたあなたと共に、この国をつくり上げる仕事に取り組みたい」と伝えた。西郷は首を縦に振らなかった。彼の本心は不明だが、実際に鹿児島に帰って…
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「征韓論」西郷隆盛は自分が朝鮮で殺されてみせると主張
留守政府と大久保利通、伊藤博文らの使節団の対立が、もっとも顕著に表れたのがいわゆる「征韓論」においてであった。征韓論には朝鮮に対して軍事的威圧を加えるという狙いがあった。当時の朝鮮は中国を宗主国とし…
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使節団の帰国とともに新政府内に新たな権力闘争が起きた
岩倉使節団は結果的に、日本の指導者間の関係を再整理することになった。彼らは現実を見つめる目や、これからの国づくりに何が必要とされているかを的確に見抜く感性と知性を持っていた。伊藤博文は長州の出身だか…
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ビクトリア女王にとって日本は極東の小国に過ぎなかった
岩倉使節団の本隊はイギリスに4カ月近く滞在した。滞在期間が延びたのはイギリスに見聞する価値のある施設やシステムが多数存在したからでもあったが、一番の理由はビクトリア女王が夏の休暇を取っていて日程の折…
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新島襄は再三にわたり「帝国大学はつくりたくない」と拒否
幕末から維新への変革はいくつかの因子が重なり合って一つの体制をつくっていった。この体制は主に個人の力によってつくり上げられたと言うこともできる。私はその個人に大久保利通や木戸孝允、岩倉具視、西郷隆盛…
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山県有朋の「徴兵令」に旧士族と庶民が激しく反発した理由
近代日本の軍事について、山県有朋の果たした役割は大きい。彼は明治2年に長州藩から海外視察の命を受け、ヨーロッパのいくつかの国の軍事について見聞している。そこで自覚したのは、日本の近代化は単に西洋の事…
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徴兵制敷いたドイツの軍事観は日本の現状にぴったりだった
ドイツ帝国をつくり上げたビスマルクの演説に心を奪われたのは大久保だけではなかった。木戸孝允もまた納得していた。木戸はビスマルクにぜひ日本の復興を助けて欲しいと申し入れている。 「我々の国は数百…
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大久保利通はドイツ帝国を誕生させたビスマルクに感銘した
明治新政府は大久保利通を指導者の中核に押し上げていった。大久保にそれなりの資質があったからだ。彼の資質は決して感情に溺れないことであった。 岩倉使節団の人選をするとき「いまは国内政治が大事な…
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アメリカの自由の精神に関心持つも「結束が乱れる」と否定
大久保利通と伊藤博文は日本に戻って天皇の委任状をもらおうとしたが、ここで留守政府を預かっている参議たちと一悶着が起きた。これが明治政府の第一の内紛になり、西南戦争の伏線にもなっていく。 大久…
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大久保利通は浴室やトイレも備えた米国のホテルに驚嘆した
この岩倉使節団の見聞は、日本の社会とは全く異なる欧米の文化、生活様式に触れることで、その吸収を急ぐという方向に向かった。日本が3世紀近く眠ったような状態にあったと考えたのである。そのことに気づいた日…
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津田梅子も…「婦女の鑑」を期待された5人の女子留学生
岩倉使節団の中には5人の女子留学生も交じっていた。山川捨松、永井繁子、津田梅子らで、そのうち梅子はまだ6歳であった。大体が新政府の要人たちの推挙であったり、有力者の縁続きの者であった。次代を担うには…
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岩倉使節団の成否は明治新政府の今後を占う重要な鍵だった
岩倉使節団には3つの役割があった。その1は明治新国家をどのような国にしていくかの視察と諸外国に学ぶことである。その2は日本が鎖国を解いて新国家として誕生したことを知らせる。その3は安政5年に五カ国(…
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明治維新は「解体」と「再生」の容赦ない“革命”だった
近代日本史はペリーの黒船来航で始まった。国を閉じていた幕府は、これは従来にない国難であり、危機であると受け止めた。むろん朝廷もそのように受け止めたが、しかし幕府から詳細を知らされていなかったので、ま…
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大震災の虐殺…東京弁護士会は流言飛語を事実と断定した
関東大震災は地震の規模がマグニチュード7・9だったことから、死者と行方不明者が約10万人に達するだろうといわれている。これとは別に朝鮮人と中国人、日本人の社会主義者が殺害された。その人数がどれくらい…
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関東大震災の避難民に大邸宅を開放…人情家だった後藤新平
9月1日に関東大震災が起きた時、内閣が存在していなかった。この年(大正12年)8月24日に加藤友三郎首相が急死して、内閣が崩壊したからである。外相の内田康哉が臨時首相代理のポストについていた。大震災…
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「西洋の覇道かそれとも登用の王道か」孫文は日本に迫った
実は孫文は、犬養毅への書簡の中で今回の地震に対する慰めとともに、日本がこれから進むべき道をぜひ明確な形で表して欲しいと訴えていた。日本は欧米列強の望む方向に進むのではなく、われわれとアジア諸国の独立…
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友人である孫文の見舞い書簡に犬養毅は返事を出さなかった
大正末期の日本人にはさまざまな生き方があった。いわば歴史と触れ合って生きる人たちである。ほんの一端だが、彼らの姿も語っておくことにしたい。 大正12(1923)年9月1日の関東大震災から、日…