代表82試合の三都主アレサンドロ「W杯ではリスタートが勝負の分かれ目になる」
三都主アレサンドロ(名古屋CSF/44歳)
2002年に日本と韓国でアジア初のW杯が共同開催された(5月31日~6月30日)。フランス人監督トルシエに率いられた日本代表は、史上初のグループリーグ突破。決勝トーナメント一回戦でトルコに惜敗したとはいえ、母国開催W杯で大いに面目を施した。あれから20年。日本を熱狂の渦に巻き込んだトルシエジャパンの面々は今どこで何をやっているのか? カタールW杯に臨む森保ジャパンについて何を思うのか?
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冷たい雨の降りしきる2002年6月19日の宮城スタジアム。1点をリードされた日本にとって最大の決定機となったのが、前半42分の三都主アレサンドロの左足FKだ。
「狙い通り。ただ、結構スピードがあって速かった分、落ちなかった」
背番号14の強烈キックは左クロスバーを直撃。惜しくもゴールならず。彼は前半45分で交代を命じられた。日本はトルコに敗れ、16強敗退。その悔しさは、20年経った今も全く消えていない。「トルコ戦で決めていたらその後の人生がどうなっていたか分からない。でも、それも人生。神様が示した道です」と笑う彼は今、故郷のブラジル・マリンガでクラブ経営に邁進中だ。
帰化して約半年で日韓W杯出場
16歳の時に来日した三都主が日本国籍を取得したのは2001年11月。大の日本好きで、1999年に清水でMVPを獲得したこともあり、恩返しの意味を込めて帰化に踏み切った。
「(約半年後の)日韓W杯は『出れたらいいな』くらいに考えていました。でもトルシエが4年かけて作ったチームがすでにあり、同じポジションには伸二(小野=札幌)や俊輔(中村=横浜FC)、ハットさん(服部年宏=福島監督)がいた。浩二(中田=鹿島CRO)も左サイドに入ることがあり、正直、難しいと思いました。ただ、自分には他の誰にも出せないタテの突破力があると自信を持っていた。反面、僕が入れば誰かが外れるという複雑な気持ちもあった。実際に23人入りした時は頭が真っ白になりましたね」
ブラジル出身の三都主にしてみれば、W杯はスペシャルな大会である。1994年アメリカW杯でドゥンガやロマーリオらを擁する王国が躍動し、優勝杯を掲げる光景が目に焼き付いていたからだ。
「有名選手がズラリと並ぶ大舞台、しかも日本開催のW杯に自分が出るなんて想像もつきませんでした。日本国籍を取得しなければそんなチャンスもなかった。もう思い切ってやるしかないと割り切ったんです」
■トルコ戦にまさかの先発抜擢
最初に桧舞台のピッチを踏んだのは、グループリーグ初戦のベルギー戦。1-1の状況で小野と交代した三都主は「自分の力で何とかしたい」と気合を入れた。が、結果は2-2のドローに終わった。
続くロシア戦、チュニジア戦はウズウズしながらベンチから見守り、16強入りを心から喜んだ。
そして迎えた決勝トーナメント一回戦のトルコ戦。まさかの先発抜擢に本人も驚きを隠せなかった。
「ヤナギ(柳沢敦=鹿島ユース監督)が首を痛めて出られず、普通にアキ(西澤明訓=仲介人)が入るんだろうなと。アキとモリシ(森島寛晃=C大阪社長)のコンビならやりやすいし、それがベターと考えてました。だけど指名されたのは自分で、一度もやったことのない左寄りのシャドウ。先制点を奪ったウミト・ダバラの裏を突き、DFのアルパイに勝負を仕掛けようと思ったんです」
「森保日本はFKのキッカーが物足りない」
狙い通り、三都主は積極果敢に前に出たが、前半12分に失点。相手は守勢に回り、攻め入る<穴>がなくなった。
それでも背番号14はゴールへ突き進む。それが直接FK弾という形で結実すればよかったが、そうはいかなかった。
「W杯はリスタートの得点機会が多い。2010年南アフリカW杯のヤット(遠藤保仁=磐田)と本田(圭佑)もそう。あの頃は名キッカーが揃っていました。ただ、今の森保日本を見るとそこが物足りない。カタールW杯では、リスタートの結果が勝負の分かれ目になってくると僕は見ています」と彼は鋭い指摘をしてくれた。
日韓W杯の後、三都主はチャールトン入りを目指して渡英するも、就労ビザが取得できずに帰国。浦和へ移籍し、2006年ドイツW杯に出場。2007年にはオーストリア・ザルツブルクへ赴いた。
残念ながらこのタイミングで日本代表からは外れたが、同クラブでリーグ優勝し、2010年には名古屋でJ1制覇を達成。さらにJ2の栃木や岐阜でもプレーするなど、2016年まで現役生活を送ることができた。
「トルコ戦のFKを決めていたらチャールトンに入れたかもしれない。でも大きなケガもなく、39歳までプロ選手を続けられたのは奇跡。とんでもない人生です」と彼は20年前の夢舞台に改めて感謝する。
ブラジル代表選手を出すのが夢
ユニフォームを脱いだ後は、故郷に戻ってコーチ業に就くことを考えた。が、子供たちの育成に軸足を置くことを決意。2016年12月に「アレックス・サントス財団(三都主サッカーアカデミー)」を設立する。
この取り組みを知った愛知県碧南市に本社を置く人材派遣会社・アルコの支援を取り付けた三都主は「アルコ・スポーツ・ブラジル(ASB)」というプロクラブを立ち上げ、財団を下部組織にして本格的なクラブ作りに乗り出した。
「ASBは2019年から本格始動し、2021年にはパラナ州選手権2部に昇格。今季はその2部で優勝したんです。5月29日のプレーオフに勝てば、1部昇格が現実のモノとなる。そうなれば、来季からはアトレチコ・パラナエンセやクリチーバといった名門と同じカテゴリーで戦える。クラブの格も一気に上がりますし、選手の待遇も大きく改善できる。上昇気流に乗れると思います。僕の夢はいつかブラジル代表選手を出すこと。日本から来ている選手もいるので、彼らをJリーグで活躍させたい。そういうクラブになるように、これからも一生懸命に頑張っていきます」
2002年日韓W杯戦士でここまでグローバルな活動をしているのは三都主しかいない。
自らのクラブをより一層成長させ、日本とブラジルの繫ぎ役としても大きな役割を果たすべく、彼は持ち前のアグレッシブさで突き進んでいく。