保阪正康 日本史縦横無尽
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「光クラブ事件」で自殺した東大生・山崎晃嗣はなぜ人格が一変したのか?
学徒出陣から80年、すでにその体験者も今は100歳を越えるのだから、彼らの体験の継承も容易ではない。私はかつてこの実態を、昭和史探究の一環として調べたことがあった。折々にその実態については紹介してき…
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学徒兵に「知性や理性は捨てろ。戦う機械になれ」という東條英機の要求
東部第6部隊は、正式な部隊名は近衞第2師団第3連隊補充隊といった。天皇の直接の栄誉を受ける部隊でもあった。そのためもあったのだろう、東條英機首相兼陸相が学徒の激励に訪れ、皇軍の範たることを要求したの…
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東條英機の訓示は、神宮外苑での壮行会より、さらに神がかりに傾いていた
学徒出陣の大学生は明確な数字は分からないにしても、防衛庁(省)の戦史部の刊行書などでは、およそ9.6万人と記載されている。とにかく現役の大学生の80%ほどが入隊したわけだが、その内訳はどうなるのだろ…
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「9.6万人」の出陣学徒は「一億総特攻」の中軸だったのか
明治大学の場合はどうだったか。やはり調査グループは、明治大学史紀要などを集めて、数字の確認を急いだという。 昭和61(1986)年9月30日に発行された第6号が学徒兵の調査を行ったとあり、あ…
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多くの学生に共通する「幸なれ、我が前途」の悲劇
慶応義塾大学の学部学生は、どの程度徴兵検査を受けたのか、その比率について「慶応義塾百年史」(昭和39年6月刊)では96%に及ぶとある。学徒出陣組だった慶応出身者の調査グループの中には、昭和60年前後…
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学徒出陣は天国と地獄を同時に体験するようなものだった
慶応義塾の場合を見ていくと、やはり「慶應義塾百年史」に、学徒出陣について触れられている。この書は昭和39(1964)年6月に刊行されたのだが、いわゆる勅令第755号によって徴兵検査を受けた学生は、大…
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早稲田大学の学徒出陣 終戦時に文部省が資料を焼却した可能性
早稲田大学の学徒出陣については、当時大学側でも資料の整理を独自に行い、それが百年史の刊行時に明らかにされたのであろう。昭和18年の勅令第755号により、学生の徴兵時期が短縮され、いわば学徒出陣が実施…
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学徒出陣など昭和史の把握に努める一橋大学出身者たち
その他の大学について、このグループは精力的に資料を集め、その実数を調べてもいる。といっても各大学の編年史を基に見ていく以外にさしあたっての方法はなかった。東京帝国大学の実数が明確ではなかったように、…
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出陣学徒の死亡数は何人で、どんな戦闘に参加したのかを調べようとする動き
学徒出陣の学生数はどの程度であったのか、その数字は現在に至るもまだ正確には把握されていない。全体に学徒出陣そのものが現役の兵隊数が少ないというので、間に合わせのような形で召集されたと言える。そうして…
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死刑判決を受けて初めて自分が人身御供にされたことに気づいた
この島での日本軍による惨殺行為を裁くBC級戦犯裁判は、昭和21(1946)年3月11日からシンガポールで開かれた。もし日本側が裁判もなしに現地の住民を殺害していたとなれば、日本軍の幹部将校や参謀など…
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「全員を死刑にするべき」と譲らなかった陸軍、海軍は手ぬるいと批判
このBC級戦犯裁判の資料は、イギリス側から日本に渡されていたのだが、一般に公開されるには40年余の時間がかかった。多くの資料がそれぞれの国から戻され、関係者の証言によるとほとんどが法務省の地下に眠っ…
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将校たちは「内通者がいる。殺害しろ」と命令を繰り返した
インド洋のベンガル湾の南にアンダマン・ニコバル諸島がある。この諸島の一つの島は、ニューギニアの東部、あるいはオーストラリア方面の制圧のために極めて重要で、太平洋戦争の開始から間もなく、日本軍はこの島…
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根拠もなく90人もの現地住民が殺害された イギリスは徹底的に調査
学徒兵Kはシンガポールのチャンギー刑務所で、BC級の戦犯裁判を受けた。その裁判は日本側の証拠も不十分な上に、住民を惨殺した軍人や兵士が問われるべき罪状を、通訳に過ぎなかったKに責任を負わせる形になっ…
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暴力を止めたのに…責任を押しつけられ、BC級戦犯として処刑された京都帝大生
学徒兵の戦場に赴いて死と向かい合う姿には、一般の兵士や職業軍人の戦時体制への組み込まれ方とは異なるケースが多い。これまで主に特攻作戦に従事させられた学徒兵の姿を、出来るだけ詳しく見てきた。こうした作…
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特攻隊に組み込まれた学徒兵「僕は讃美歌を歌ってアメリカ軍の艦艇にぶつかっていきます」
学徒兵として特攻機の搭乗員となり、アメリカ軍の艦艇に体当たりして亡くなった青年の人生について、もう少し語っていく。今から30年余も前になるのだが、学徒兵が戦後再び学園に戻り、心理的な苦悩と闘いながら…
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「回天」で死した息子の日記を父親は転写し続けた
学徒出陣の中から特攻兵器の搭乗員として指名され、亡くなった学徒兵の悲劇は、歴史の中に正確に刻んでおくべきだと、私は考えている。それゆえに、たまたま生存という形で帰還した者や戦死した学徒兵の家族などに…
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呼吸困難で死亡するまでどのような思いが去来したのか
「回天」の搭乗員だった東京帝大生のKは死を覚悟して、日々この特攻兵器によるアメリカ軍艦艇への自爆の訓練に励んでいた。死を覚悟する感情とは、時間が停止して自らの意識が途切れることであった。全てはある一瞬…
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発進イコール死だった人間魚雷「回天」はいかにして考案されたか
学徒兵として入営し、特攻兵器の訓練をさせられ、そして実際にアメリカ軍の艦艇に体当たりして亡くなった者はどの程度存在するのだろうか。 陸軍特別操縦見習士官(特操)に選ばれた学徒兵には特攻隊要員…
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「私も君たちに続いて出撃する」という上官の偽り
学徒兵で特攻隊員としてアメリカの艦隊に体当たりしたAについて、もう少しエピソードを書き残しておこう。特攻隊員としての訓練を続ける中で、昭和20年に入って間もなく、4、5日の休暇が与えられ、故郷の信濃…
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特攻隊員でなければ反戦主義者として拷問されていただろう
学徒兵Aが特攻隊員として書き残した遺書は、近代日本の知性がどのように解体されたかを正確に物語っている。これまで私はAと書かずに具体的な氏名を明かして、彼の遺書の持つ意味を紹介してきた。しかし今回あえ…