保阪正康 日本史縦横無尽
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真珠湾攻撃の翌日から始まった東條英機の「言論弾圧」は軍内で評判が良かった
太平洋戦争の開戦時に、内相が東條英機だったことは極めて重い意味があった。首相、陸相に加えて内相にもなっていたのである。 日本にはそれほど人材が枯渇していたのかとの疑問さえ湧くが、内相も兼務し…
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駐日大使グルーを怒らせた日本人の虫のいい要求…「政府筋と密接な関係」を築く人物からの手紙
吉田茂の表情について、駐日大使のグルーはその回顧録に「私の友人はひどく押しつぶされたように見えた」と書いている。戦争回避に動いた吉田が敗戦後の占領期に、アメリカ側の国務省関係の外交官に受けが良かった…
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天皇の2人の弟である秩父宮、高松宮両殿下も開戦に反対していた
軍人の軍人による軍人のための戦争には、3つの錯誤があったと書いた(昨日の号)。この錯誤は近代の軍人に共通する性格でもあった。それゆえに文民支配を徹底させて、軍事は政治に隷属させなければならないという…
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なぜ対米英蘭戦争に突っ込んだ? 東條英機以下、軍人たちに共通する歪んだ歴史観
愛国的と称する軍人や日本主義の旗を掲げる民間右翼などを除けば、日本社会の大半は対米戦争に乗り気ではなかったといっても良いであろう。特に政治家はこの気持ちが強かったといえる。それなのになぜ、いとも簡単…
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12月8日開戦の日に元閣僚らは「日本に勝算はない」と見抜いていた
若槻の発言は、いざ戦争になったなら精神力は心配ないにしても、物質面で長期戦に耐えられるかを慎重に検討しなければならないと前置きした上で、次のような意見を天皇をはじめ内閣の面々に突きつけた。 「…
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大久保利通の血を受け継いだ 天皇側近・牧野伸顕の苦悩
東條英機の本心は開戦か、避戦かとなれば、間違いなく開戦であっただろう。特に首相になってからは、天皇の「外交交渉で解決せよ」という指示に表面上は従ったが、政策の再検討の連絡会議では現状の日本の様相を見…
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木戸幸一内大臣の失敗 東條英機を推挙し天皇に大命降下させた
この連絡会議で発言の比重が重いのは、大本営側は陸軍参謀総長の杉山元と海軍軍令部総長の永野修身である。それぞれ次長が出席しているといっても形式的なところがあり、最高責任者の総長を差し置いて発言できるわ…
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リベラリストの西園寺公望が生きていたなら…軍の意向が色濃く反映された首班指名
太平洋戦争の開戦を決定したのは、むろん天皇主権国家であったのだから、御前会議だったという形にはなっている。しかしこの御前会議は単なる儀式であり、その前に開かれている大本営政府連絡会議での決定をもとに…
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太平洋戦争の開戦は誰がどのように行ったのか?
太平洋戦争の開戦の経緯を丹念に追っていくと、私たちはまだまだ意外な事実に出合う。このことは日本社会の歴史理解がかなり一面的だと告白することでもある。これは重要なことだが、開戦の決定は誰がいつどのよう…
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ハルノートには日本経済にプラスの項目が含まれていた 真面目に交渉を続ければ…
吉田は、アメリカ側のハルノートの原文を見たことを伝え、その上で「これは交渉の基礎である」との注意書きを読んだ。そのため「最終通告ではないと思っている」と答えた。グルーはその答えに納得し、日本政府はそ…
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東條内閣で公然と行われた「ハルノートのトリック」に対する吉田茂の怒り
吉田茂は首相の座を去った翌年(昭和30年)、「時事新報」の夕刊に「思出す侭」と題して自らの人生を振り返る思い出話を書き残している。外交官人生や戦後の政治家生活をわりと正直につづっていた。この連載記事…
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「ハルノート」はアメリカによる“最後通告”ではなかった
ルーズベルトの親電を遅らせて、実質的に意味のないメッセージに変えたのが佐官クラスの一存によるものだったという現実は、当時の日本社会の規律がいかに緩んでいたかを物語っている。それは結局、歴史上の汚点と…
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ルーズベルトの親電を10時間遅らせた通信課の命令が意味するのは天皇への背信
ルーズベルト大統領の親電がなぜ15時間近くも遅れてアメリカの駐日大使館に届いたのか。その内幕を丹念に見ていくと、日本の政治上の欠陥がいくつか浮かび上がってくる。 アメリカ側は日本時間12月7…
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12月8日未明、東郷茂徳外相は親電を持って天皇に拝謁した 真珠湾攻撃直前にあったこと
駐日大使のグルーが東郷茂徳外相に電話を入れたのは、12月7日の午後10時15分ごろであったという。その内容は、今ワシントンから着いたルーズベルト大統領の天皇宛ての電報を解読中だが、天皇に拝謁したいと…
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昭和天皇に向けられた米国の“戦争回避”アリバイ作りの電報
ルーズベルト大統領が昭和天皇に電報を送るという案は、国務省内部では早くから検討されていた。11月の終わりにはハルが素案を作り、ルーズベルトの元に届けていた。日本側の電文を解読していると、開戦の時期が…
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「ハル国務長官対野村吉三郎」騙し合いの攻防、日々のマジックを詳しく分析
天皇は不安と疑念で開戦の日(12月8日)までの日々を過ごすことになるのだが、その間に臣下の者はひたすら開戦のための準備を進めていた。東條内閣は開戦の報が漏れるのを恐れて徹底した秘匿工作を行っていた。…
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天皇の「絶対反対」が覆った12月1日の御前会議 開戦を全面的に容認
12月1日の御前会議はこれまでと異なって、いつも出席する6人の閣僚のほかに、7人の閣僚が加わった。日頃は開戦論議に口を挟むことのできない閣僚も天皇と椅子を並べたのである。これはむろん天皇の意思による…
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天皇を驚かせた海軍内部の反対論 重臣の3分の2は「対米忍苦、現状維持」
前回で触れたように、太平洋戦争の開戦に至る道筋を見て、4つの視点から新視点を出しておきたい。まず1の天皇の開戦決意はいつであったかという点だ。それには3段階があったと見てきた。開戦絶対反対、開戦・避…
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政治・軍事指導者たちの中で“真の忠臣”は誰だったのか?
天皇はハルノートを受け取ったにせよ、明確に開戦の感情を持つに至ったわけではない。大本営政府連絡会議に出席して、戦争の可否を決める軍事指導者たちのいきりたつ様子とは全く心情を異にしていた。「開戦やむな…
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東條英機はハルノートをどのように天皇に報告したのか
昭和天皇が東條英機首相から、ハルノートの内容について報告を受けたのは、11月27日の午後1時27分であった。東條がどのような内容を報告したのかは「昭和天皇実録」にも詳しくは書いていない。しかし、どの…