日本代表2800日 オリンピック野球伝道
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バルセロナ五輪は銅…報告会の挨拶で思わず発言したこと
「私は素晴らしい君たちと試合ができたことを誇りに思う。この20人で戦える最後の試合、このチームの素晴らしさを見せよう」 1992年バルセロナ五輪準決勝で台湾に敗れた翌朝、私は3位決定戦の米国…
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若林、杉浦はプロ入りを断念して五輪に野球人生を懸けた
国際大会を戦うために海外遠征していると、アクシデントはつきものだ。 宿舎、食事、球場の状態など、試合を戦う以前に、日本とは異質な環境に適応しなければならない。 何があっても驚かな…
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早大・仁志敏久だけはバルセロナ五輪に連れて行きたかった
1992年バルセロナ五輪のメンバーは、大学生、社会人のアマ選手のみで構成された。プロが加わるのは2000年のシドニー五輪から。89年からの4年間、何百人というアマ選手の中から、数十回の合宿、海外遠征…
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「このままのメンバーで…」主将高見が訴えたチームの総意
1992年バルセロナ五輪を1カ月後に控えた6月下旬、北海道・旭川合宿で、私は一つの決断を下そうとした。 八回、九回を任せるストッパーとして期待をしていた右腕の西山一宇(NTT四国→巨人)をメ…
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ヤンチャくれだった右腕・西山一宇をミーティングで叱責
「この1年間で球速5キロアップに取り組もう」 1990年2月のグアムキャンプで、私は投手たちにこう呼びかけた。 野茂英雄(新日鉄堺→近鉄)、潮崎哲也(松下電器→西武)ら優秀な投手が前年…
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“ミスターアマ野球”右腕の杉浦正則は韓国戦の切り札だった
日本生命でプレーしていた右腕の杉浦正則は、1992年バルセロナ五輪から2000年シドニー五輪まで3大会連続出場。シドニーでは日本選手団の主将を務め、「ミスターアマ野球」「ミスター五輪」と言われた。 …
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伊藤智仁の起用を巡る葛藤 キューバ、台湾戦では信頼せず
監督をやっていると、選手のため、チームのために決断したことが本当に良かったのかどうかという葛藤が絶えずある。大きな試合ともなると、なおさらである。 バルセロナ五輪での伊藤智仁(三菱自動車京都…
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バルセロナ最終選考会議で伊藤智仁代表入りを強く主張した
「三菱自動車京都に伊藤智仁(元ヤクルト、現楽天コーチ)という良い投手がいる」 1991年5月17日。私は関係者からこんな話を聞いて、社会人野球大阪大会が行われる日生球場(大阪市中央区=当時)へ…
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プレミア12敗退の監督・小久保裕紀から届いたメールの返信
自分で言うのもなんだが、私のミーティングは長かった。相手国の分析をして終わるのではなく、時には代表選手たるものとしての心構えを説いたからだった。 「日本代表は文字通り、日本の野球界を代表する選…
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柔道大家・神永昭夫氏が見抜いた小久保裕紀の“大器の資質”
前日本代表監督である小久保裕紀(青学大→ダイエー)との縁は、1992年バルセロナ五輪から遡ること15年ほど前、私がまだ住友金属(和歌山)で選手だった頃から始まった。 ■住金の薬剤師だった母 …
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唯一の大学生だった小久保裕紀は物おじせずサザンを熱唱
1992年のバルセロナ五輪の20人の代表メンバーは社会人が19人で大学生が1人。前回大会のソウル五輪は、野茂英雄(新日鉄堺)や古田敦也(トヨタ自動車)ら、スター選手の集まりであったのと比べると、飛び…
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野村謙二郎は両親から野球のセンスと俊敏性を受け継いだ
1988年ソウル五輪の日本代表メンバーであり、私と同じ佐伯鶴城高(大分)出身である野村謙二郎(駒大、広島)は、まず彼の父である三郎さんとの縁から始まる。 佐伯鶴城OBで私の大先輩にあたる三郎…
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石井丈裕は完全アウェーの韓国戦で悔しさをあらわにした
1988年ソウル五輪では、のちに西武ライオンズで活躍する2人の右腕がチームの中心にいた。石井丈裕(プリンスホテル)と、潮崎哲也(松下電器)である。 当時23歳だった石井は、野茂英雄(新日鉄堺…
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広島・佐々岡真司が「無形の力」を爆発的に転化させた瞬間
1989年夏、私は都市対抗が行われる東京ドームで連日、選手のプレーを追っていた。特に印象に残っているのは、7月24日に行われた広島市(三菱重工広島)対東京都(NTT東京)の試合である。 その…
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与田剛が「自分の人生変えた」と話すキューバ戦の先発登板
中日ドラゴンズの監督を務める与田剛とは今も会えば、1989年のキューバとの国際親善試合(全5戦)の第1戦で先発した際の話になる。 当時、NTT東京に所属していた与田は、その大会で初めて、日本…
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ソウル五輪の正捕手・古田敦也は「考える力」を持っていた
1988年ソウル五輪の代表メンバーだった古田敦也(トヨタ自動車)は、立命大4年時の87年8月に行われたアジア野球選手権でも代表入りしていた。監督の鈴木義信さん(東芝)、コーチの川島勝司さん(ヤマハ)…
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キューバ親善試合直前 野茂に「堺へ帰りなさい」と告げた
キューバとの親善試合の直前合宿の集合日、野茂英雄(新日鉄堺)が私との面談を求めた。右肩に違和感があり、大会での登板を控えさせてほしいとのことだった。大会後には自チームの名古屋遠征が控えており、そこで…
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無名の高卒新人・野茂は文句ひとつ言わないタフさがあった
ソウル五輪の前年の1987年秋、19歳の野茂英雄(新日鉄堺)は社会人野球の新人研修会に参加した。82年にスタートしたこの研修会は、入社1~3年目の若手が対象。近い将来、日本代表としてプレーできるよう…
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野茂英雄の“真骨頂” 全身が震えあがるほどの凄みを感じた
30年以上経った今も、脳裏に焼き付いている。 ソウル五輪日本代表のコーチを務めていた1988年、8月23日から9月7日にかけて、イタリアで12カ国が参加して行われた第30回世界アマチュア野球…
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日本代表には環境の違いに適応&対応する力が必要だった
1988年のソウル五輪では投手担当コーチ、92年のバルセロナ五輪は監督を務めた。野球はバルセロナから正式種目に採用された。それにつれて国際大会が増えていく中で、私は89年の監督就任から4年間、目先の…