石井丈裕は完全アウェーの韓国戦で悔しさをあらわにした
1988年ソウル五輪では、のちに西武ライオンズで活躍する2人の右腕がチームの中心にいた。石井丈裕(プリンスホテル)と、潮崎哲也(松下電器)である。
当時23歳だった石井は、野茂英雄(新日鉄堺)、潮崎による投手3本柱の軸だった。予選リーグ初戦のプエルトリコ戦に先発、2戦目の台湾戦でリリーフとして登板。そして、最も大きなヤマ場であった準決勝の韓国戦と、決勝の米国戦で先発を託した。
88年のドラフトで、石井とともに西武から指名される3学年後輩の右腕、渡辺智男(NTT四国)が五輪直前の世界選手権(イタリア)の米国戦で右肩を故障。本番ではこの2人に主戦を任せる予定だったが、長いイニングを投げることが難しくなり、石井への期待はますます高まった。
完全アウェーとなった準決勝・韓国戦。大きな重圧がかかる中、7回途中5安打1失点と素晴らしい投球をした。石井らしさが見えたのは、0―0で迎えた七回表。投手前に転がったバントを処理する際、うっかり足を滑らせた。捕球することができず、ピンチを広げた。
すると石井は、グラブを思い切りグラウンドに叩きつけ、悔しさをあらわにした。試合会場のチャムシル球場は、マウンド付近が天然芝だった。当時の海外の球場は芝目が長く、日本と比べてグラウンドもきちんと整備されていないことが多かった。守備に細心の注意を払うべきだったが、好投していた彼を責められるはずがない。場内にブーイングが巻き起こる中、私は石井の行為を自分自身への強い叱責と受け取った。日本人はあまり感情を表に出さないといわれるが、石井は闘争心を前面に出す。それがまた彼の良さでもあった。