無名の高卒新人・野茂は文句ひとつ言わないタフさがあった
ソウル五輪の前年の1987年秋、19歳の野茂英雄(新日鉄堺)は社会人野球の新人研修会に参加した。82年にスタートしたこの研修会は、入社1~3年目の若手が対象。近い将来、日本代表としてプレーできるような選手を社会人野球全体で発掘する場だ。
全国大会での登板は、日本選手権(10月26日~11月4日=大阪球場)での1試合、打者2人との対戦だけだった。成城工業高(現成城高)時代は甲子園経験がなく、全国的に無名に近い存在。
■粗削りながら高評価
私は研修会には参加しておらず、実際に彼の球を見たわけではなかったが、野茂と同い年で、後に一緒にソウル五輪メンバー入りする潮崎哲也(松下電器)とともに、かなり高い評価を受けた。制球が安定せず、粗削りではありつつも、球速や球威は優れており、大きな可能性を秘めていた。
2人は、研修会後に選んだ30人のソウル五輪代表の第1次候補には入らなかったが、ソウル五輪が行われる翌88年、強化合宿や都市対抗で期待どおり頭角を現し、最終の20人に入った。9月19日からの本番に向け、8月末からイタリアでの世界選手権、日本での4カ国対抗壮行野球(日本、米国、カナダ、豪州)を2週間で立て続けに戦い、ソウル入りした。