西村徳文「野球人生 七転八起」
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1年で退任 新鮮だったバレンタイン監督の満塁スクイズ指令
「オハヨウゴザイマス、オゲンキデスカ?」 明るい声が球場の通路に響き渡る。 1995年、レンジャーズで指揮を執ったボビー・バレンタインが新監督に就任した。メジャーでの監督経験者がプロ野…
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長期低迷の中、試合そっちのけでゲームに興じる若手を一喝
心機一転、千葉への本拠地移転で臨んだ1992年シーズンは、開幕前の右足首捻挫によって成績を大きく落とした。翌93年は規定打席に到達したものの、以降は、出場機会が減っていった。年齢も30代半ばに差し掛…
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千葉へ本拠地移転でも鮮明に覚えている川崎球場の思い出
今でも思い入れが強い球場だ。 1990年から2年間指揮を執った金田正一さんが91年オフに退任。翌92年、西武で投手コーチを務めていた八木沢荘六さんが新監督に就任した。それに伴い、球団は川崎球…
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エラーしたとき村田兆治さんは怒るどころか励ましてくれた
外野のフェンス沿いを黙々とランニングする姿が、一番印象に残っている。 独特のマサカリ投法で通算215勝を挙げたロッテの大エース・村田兆治さんのことだ。 私がプロ入り2年目の1983年…
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金田正一監督からもらった1500万円相当のサファイアの指輪
「チームのMVP賞はサファイアの指輪だ!」 1990年の開幕前、監督に復帰した金田正一さんは、選手全員の前でこう宣言した。 チームの勝利にいかに貢献するか、日々考えながらプレーした結果…
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大乱闘の試合後に、傷だらけのトレーバーとまさかの遭遇
金田正一さんは選手の健康管理に人一倍、目を光らせる監督だった。ランニングの量を増やし、散歩を課した。禁煙推進もそのひとつだった。特に投手には、「体に悪いものなんか吸うな」と口酸っぱく言っていた。 …
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金田正一さんのキャンプ初練習は異例の「早朝早歩き30分」
金田正一さんが監督なら、そうなることは覚悟していた。 1974年に日本一を達成するなど、73~78年に監督を務めた金田さんが90年、12年ぶり2度目の監督に就任した。 1月の合同自主…
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伝説の“10.19”有藤監督が9分間猛抗議したワンプレーの真相
「何やってんだ! 早くしろ!」 ブルーのグラウンドコートを着て猛抗議する有藤通世監督に対し、スタンドのみならず、近鉄ベンチからも強烈なヤジが飛んできた。 1988年10月19日、近鉄と…
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伝説の10.19ダブルヘッダー 近鉄V阻止「最後の5秒」の記憶
近鉄が連勝すれば優勝が決まる「10.19」のダブルヘッダー。普段の川崎球場は観客が少なく、満員になるのはゴールデンウイークくらい。そのわずかなスタンドのお客さんも、野球ではなく、隣の競輪場をのぞき見…
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右手骨折で強行出場 4年連続で獲得した盗塁王への思い入れ
右手有鉤骨骨折が完治しないまま、有藤通世監督の鶴の一声で一軍へ緊急昇格した私は、復帰戦となった西武戦で3安打1盗塁をマーク。翌日の同戦でも、1安打1盗塁とチームの連勝に貢献することができた。 …
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有藤さんの突発的な一軍復帰指令に目玉が飛び出るほど驚く
「ニシ、今日から行くぞ!」 「えっ? どこへ行くんですか?」 「バカ、ゲームに出るんだよ!」 右手有鉤骨骨折でリハビリをしていた私は1989年5月27日、監督である有藤通世さんの鶴…
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右手有鉤骨骨折もギプスをしたままの代走出場に敵もア然
1987年、現役を引退したばかりの有藤通世さんが監督に就任した。落合さんが中日へトレードで移籍し、チームは転換期を迎えた。 私はこの年から背番号「3」に変更した。過去に榎本喜八さん、弘田澄男…
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有藤さん主催の宴会はブランデーの回し飲みが恒例イベント
有藤通世さんが現役の頃、私はオフに有藤さん主催のゴルフ&宴会に参加させてもらっていた。開催場所は伊豆の旅館が多かった。 有藤さんを筆頭に、遊撃手の水上善雄さんら先輩がいて、私と同い年の内野手…
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結果を残し続けた秘密は宿舎の机の上に積まれた有藤ノート
プロ3年目(1984年)の秋季キャンプ。私は、有藤通世さんとまさかの同部屋になった。 「失礼します!」 有藤さんが部屋にいたらと思い、コンコンとドアをノックして、恐る恐る部屋に入った。…
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大先輩・有藤通世さんとバッタリ鉢合わせ、慌てて筋トレ!
ミスターオリオンズと呼ばれ、通算2000安打を達成した有藤通世さんとは5年間、ロッテで一緒にプレーしている。 私の14歳年上で、1974年の日本一メンバーでもある有藤さんは背が高くて風格があ…
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結婚式の仲人を稲尾和久さんが紹介してくれた顛末
1984年から86年までの3年間、ロッテの監督を務めた稲尾和久さんは、西鉄での現役時代に鉄腕と呼ばれ、「神様、仏様、稲尾様」と称された大選手だ。 当時のロッテは、かつて西鉄が本拠地としていた…
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高畠導宏さんが原点になった 両打ち転向と指導者のイロハ
スイッチヒッターに挑戦していた私は、連日の打ち込みで自暴自棄になりかけていた。そんな時、当時の打撃コーチだった高畠導宏さんが、「1週間で上達するなんて、すごいことだ」と私を褒めてくれた。 本…
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1日に1000以上のスイングで指が固まり手が開かなくなった
1982年秋。 プロ1年目を終えたばかりの私は、川崎球場での秋季練習の初日、当時の監督だった山本一義さんに呼ばれ、「スイッチヒッターをやってみるか」と声をかけられた。 右打者としてプ…
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中日に思い切って仕掛けた第7戦初回のバスターエンドラン
ナゴヤドームでの第6戦は両軍の総力戦により、延長十五回を引き分けた。同じ敵地での第7戦もロッテは先攻。積極的に動いて先制点を取ることで、こちらのペースに持ち込みたかった。この試合にきちんと合わせてく…
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落合さんを意識しないため相手ベンチを見ないことを心掛けた
中日との2010年日本シリーズに臨むにあたり、私は相手ベンチの様子をなるべく目で見ないことを心掛けた。「落合監督」を意識しすぎないためだった。 敵将の落合博満さんが試合中、どんな局面であって…