右手有鉤骨骨折もギプスをしたままの代走出場に敵もア然
1987年、現役を引退したばかりの有藤通世さんが監督に就任した。落合さんが中日へトレードで移籍し、チームは転換期を迎えた。
私はこの年から背番号「3」に変更した。過去に榎本喜八さん、弘田澄男さんらがつけた番号で、これに恥じない活躍をしたいと決意を新たにした。
ポジションも落合さんの定位置だった三塁へコンバート。有藤さんにはチームの大先輩として何かとお世話になっていた。何とか胴上げをしたい気持ちでいっぱいだった。
キャンプでの全体練習の時間が長くなり、特守では捕手の防具をつけ、1時間近くノックを受けたこともある。いわゆるケンカノックというやつだ。
随所に厳しさがあった有藤監督時代、最も思い出深いのは89年。故障が完治しないまま、試合に出たことだ。
オープン戦中盤の四日市での中日戦。ファウルを打った際に右手首に激痛が走った。レントゲン診断の結果、骨折が判明したものの、当初はどこの箇所が折れているか分からなかった。