「失踪願望。 コロナふらふら格闘編」椎名誠著/集英社
あの椎名誠氏が78歳になった。1979年に発売された「さらば国分寺書店のオババ」以来同氏の著書は読んできたが、本書を読むと椎名氏と「死」への覚悟や適切な向き合い方を読み取ることができる。
構成は2021年4月12日から2022年6月30日までの日記に始まり、「三人の兄たち」と「新型コロナ感染記」という2本のエッセーから成り立っている。元々精神科にかかっていたことや、不眠症を明かしていただけに、過去のエッセーから見る「おどれら蹴っ飛ばしてやるけんね、なんじゃワレ、オラオラ」的武闘派的なものはあくまでも椎名氏の一面であることは分かっていた。
しかし、本書は悟りきった哲学者が己の人生と体の衰え、それでもやめられない酒などについて書いており、長年のファンである私からすると椎名氏が到達した新たなる高みを知れたような本であった。
一つの特徴は、妻で作家の渡辺一枝氏が頻繁に登場し、椎名氏への細かい配慮をするさまが見られる点だ。
〈一枝さんには本当に感謝している。特に歳をとってからは、彼女の繊細で注意深い視線や観察眼によって随分人生を助けられたように思う〉
こう来たら〈この話題はちょっと照れくさいので、後日またあらためたい〉とはにかむ。こうした私的な話をしつつも、こんなくだりもある。椎名氏の過去の旅をテーマにした特別展についてだ。
〈彼の地を旅した当時は、今みたいに何かあればクレームだバッシングだというくだらないことにはなりにくかった。変なことを言ってくるやつらはいたが、そんなの気にしなければいいだけだったし、「世論」とか「世間」とか形の見えないものは当時は今ほど力がなかったように思う〉
椎名氏の1980年代の文章が今、世に出ていたら炎上していたかもしれないが、この「世論」「世間」がパワーを持ち過ぎたのがインターネット以降の社会である。元から役人やバカなルール、固定電話やティッシュ箱のカバーなど無駄なものについては「ふざけんな!」と言い続けた椎名氏だが、本書の重要な点はこんな時代においても「信頼できる仲間」を大事にする姿だ。
日記なので彼らは頻繁に登場するが、そこから見られる配慮の数々に椎名氏がいかに慕われているかが分かる。そして、日記の後の「三人の兄たち」については、過去作品に登場した人物を深掘りし、彼らの弱いところを見せつつも、素晴らしい追悼文になっている。 ★★★(選者・中川淳一郎)