昭和最後の伝説左腕 阿波野秀幸「細腕奮闘記」
-
まず自分の思いを…巨人3年目の契約更改で「登板機会が欲しい」と訴えた
「このまま、ジャイアンツにいるのはどうなんだね? そっちの方が、キミにとってはいいんじゃないのか?」 巨人に移籍して3年目の1997年のオフ、契約更改の席上、深谷尚徳代表はこう言った。 …
-
97年は最終戦でヤクルトのホージーを四球で歩かせただけで終わった
1997年のシーズンはヤクルトが2位以下に10ゲーム以上の大差をつけてリーグ優勝。巨人はヤクルトから20ゲーム差の4位に沈んだ。 最終戦は10月8日、神宮球場のヤクルト戦だった。私はその試合…
-
巨人2年目は開幕を二軍で迎え、3年目は登板機会がさらに減った
近鉄時代は門限などなかった。いや、正確に言えばあったのかもしれないが、ないに等しかった。 しかし、巨人はキャンプの門限も厳しかった。なので、門限を破る人などいなかったように思う。まあ、いたと…
-
先発テストの黒潮リーグで打球が胸を直撃! 救急車で病院に運ばれた
すでに巨人の優勝がなくなった1995年10月3日。私は広島市民球場で行われた広島戦に先発、4回を投げて8安打、自責点4で3敗目を喫した。 巨人に移籍して1年目のシーズンは24試合に登板したも…
-
宮崎空港の一室で長嶋監督に挨拶「よく来てくれたね」と握手を求められ
1994年11月7日、近鉄と巨人から私と香田勲男の交換トレードが発表された。 「決まったからには、チームに早くなじむためにも(巨人が秋季練習を行っている)宮崎に来ませんか?」と巨人の球団関係者…
-
球団社長からの電話で巨人・香田との交換トレードを通告された
その夜、私は同僚の高柳出己と2人、日向市内に食事に出掛けた。翌日、大阪に戻ることが急きょ決まったため、行きつけの店に挨拶もしたかったからだ。 わずか6試合の登板に終わった1994年のシーズン…
-
球団社長に胸の内をぶつけると米田投手コーチから秋季キャンプに誘われた
「自分はいま、どういった立場にいるんでしょうか? 戦力として必要ないというのであれば、自分はもう、移籍しても構いません」 大阪は上六にあるホテルのラウンジ奥のスペース。私は向かい側に座っている…
-
まだ元気で投げられるとアピールしたくて巨人とのオープン戦での登板を直訴
仰木監督に代わって1993年のシーズンから近鉄の指揮を執ったのは鈴木啓示監督だった。 93年は主にリリーフで計22試合に登板して1勝3敗、防御率6.93。翌94年はシーズンの大半を二軍で過ご…
-
91年ドラフトで近鉄は即戦力右腕を1位で獲得 高柳を「立場危ういんじゃ?」と冷かしたら…
左肘を痛めて2勝2敗1セーブに終わった1991年オフのこと。 私は秋季練習が終わると、すぐに石川県の温泉に出掛けた。近鉄の投手陣は毎年、そこでオーバーホールをしていたからだ。 11月…
-
「アンタがしっかりせんと上に行けないよ」仰木監督の言葉は重く励みになった
「左肘内側側副靱帯損傷」──。 1991年5月、左肘痛で戦列を離脱、医師の診断結果がこれだった。 いまなら、靱帯を修復するトミー・ジョン手術だろうが、当時のプロ野球界ではまだ、一般的で…
-
シーズン初勝利の試合直後、投手コーチに言った「肘が痛くて…もう投げられません」
1991年のキャンプ中のことだ。 前年は開幕投手を務めたにもかかわらず、10勝11敗1セーブ。牽制がボークと取られてできなくなったばかりか、ピッチャーライナーを左膝に当てて約1カ月間、戦列を…
-
クイックの練習で疲労蓄積 ボークの後遺症に左膝軟骨損傷が重なって膨らんだダメージ
リーグ優勝した翌年の1990年シーズン。キャンプ、オープン戦でも問題なかった私の牽制が、開幕後のあるとき、急に「ボーク」と宣告された影響は大きかった。 牽制は私の大きな武器だった。一塁走者を…
-
絶対の自信をもっていた「牽制」が1990年開幕後…突然使えなくなった裏側
あれ? なんだ、この感じは……。 プロ4年目の1990年、自主トレでキャッチボールをしたときのことだ。肩肘が重いというのか、疲れが抜けていないような感覚に襲われた。 3年間の投球回数…
-
仰木さんと川崎球場から銀座のクラブに直行…小宮悦子アナとの関係を尋ねると
あれはプロ3年目か4年目、川崎球場でロッテ戦があったときのことだ。 近鉄の宿舎は当時、三田(東京)にあった。そこからバスで球場入りする前、午後3時くらいだったと思う。部屋でくつろいでいると、…
-
「パの宣伝部長」を自称した仰木彬監督 ビールの早飲みで使う選手を決めたことも
「来年の開幕は藤井寺球場が、お客さんで膨れ上がるんやないか」 1989年のリーグ優勝後のオフのこと。仰木彬監督はニコニコしながら、私にこう言った。 9年ぶりの優勝でファンが増えると思っ…
-
仰木彬監督は私に「野茂のフォームを変えようとするコーチがいたらアンタが止めないと」
「いままではオレがいたから、コーチやOBがあれこれ言っても野茂はいまのままでいいんだと言うこともできた。オレがいなくなるのだから、これから先、野茂の投球フォームを変えようとするコーチがいたら、アンタが…
-
野茂英雄が持っていた意志の強さ KOされて違う球種を勧めたら「嫌です」ときっぱり
「これ、あり得ないですよ、こんなこと書かれて……」 あるとき、野茂英雄が週刊誌を見ながら口をとがらせていた。とにかく豪快な男で、食べ物ひとつとってもこれだけ食べるといった内容だった。 …
-
トイレで酔いつぶれ、野手のミスに平然…野茂英雄のそんな姿が周囲との距離を縮めた
周りを見渡すと、新人の野茂英雄の姿が見当たらない。いったい、どこへ行ったのか……。 1990年2月の日向キャンプでのことだ。近鉄投手陣は、最初の休日前夜に新人歓迎会をやるのが恒例で、場所は日…
-
ドラフト1位で近鉄入りした野茂英雄はマスコミ対応に苦慮…一緒に座禅を組もうと誘った
1989年11月26日のドラフト当日は、近鉄の同僚・村上隆行の結婚式だった。私は彼の披露宴に出席していた。 当時、新日鉄堺の野茂英雄に近鉄を含む史上最多の8球団が競合、当たりクジを近鉄が引い…
-
優勝後の契約更改で押し問答に…金額を何度見せられてもしっかりした根拠はなかった
「ちょっと、どれくらいになるのか金額を出してみて」 リーグ優勝した1989年の契約更改。選手との交渉役だった当時の前田球団代表が、横にいる奥田球団部長にこう言った。 奥田部長は持ってい…