「アンタがしっかりせんと上に行けないよ」仰木監督の言葉は重く励みになった
「左肘内側側副靱帯損傷」──。
1991年5月、左肘痛で戦列を離脱、医師の診断結果がこれだった。
いまなら、靱帯を修復するトミー・ジョン手術だろうが、当時のプロ野球界ではまだ、一般的ではなかった。ロッテの村田兆治さんがこの手術を経験したものの、復活には相当な苦労があったようだし、リハビリの技術もいまほど発達していなかった。
近鉄には当時、最新のトレーニング理論などを学んだコンディショニングコーチの立花龍司がいた。彼に手術をせずになんとかならないかと相談したところ、こういう形があるとプランを出してくれた。それは周囲の筋肉を鍛えて靱帯をサポートしていくというものだった。
とりあえず、炎症が取れるまではアイシングをして、安静に近い状態を保つ。炎症が治まってから、トレーニングによって靱帯の周りの筋肉を鍛えることになった。
あれはファームで治療とリハビリをしている最中、藤井寺球場でのことだ。
近鉄は一軍も二軍も本拠地が藤井寺球場だったため、雨で日程がズレたか、一、二軍が重なるときがあった。室内練習場に向かう通路で、仰木監督とすれ違ったときに声をかけられた。