おかず卵1個…映画監督・飯田譲治さんの上京後の極貧生活
その頃やったバイトはまず肉体労働。“立ちんぼ”といって、高田馬場で立ってると、工事現場の日雇いの仕事に拾っていってくれる。新宿ではショーをやる昔ながらのキャバレーでウエーターもやった。夕方行って一晩で5000円くらいだから、高い方だったんじゃないかな。
映画監督を目指して上京したけど、大学がつまんない時代ですぐ行かなくなって、学費を使い込んで3年で除籍。その後にピンク映画の脚本を3本書いた。日活ロマンポルノよりも予算がない大蔵映画とか、1本350万円で作るような映画。映画1本分の脚本のギャラが6万円で(笑い)。それが映画の最初の仕事だと思います。
■室井滋と行った競馬で儲けて財布をすられ…
その後、助監督になったのが24歳。遅かったんです。交通安全の映画や教育映画だったから、最初にメジャーな現場に入ったのはさらに後。2時間ドラマに大道具の助手として入り、いろんな現場で何年も働き、3番手の助監督にやっとなれました。お金になんかなりませんよ。1カ月を8万円で生きてたから、極貧です。