坂本冬美さん明かす ヒット曲『夜桜お七』誕生秘話と「何かが違う」と焦った2012年の紅白
坂本冬美さん(歌手/56歳)
昨年、35回目の紅白出場を果たした坂本冬美さん。「あばれ太鼓」「夜桜お七」「また君に恋してる」などのヒット曲があるが、これまで紅白では「夜桜お七」を9回歌っている。この歌との出合いは歌手人生の大きな節目だった。そして、痛恨の失敗談も……。
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暮れの紅白では「夜桜お七」を歌わせていただきました。初めて歌わせていただいたのがデビュー8年目の1994年、この曲を発売した年です。気がついたら昨年でもう9回目になります。
昨年、出場した歌手の中で着物を着て歌ったのは石川さゆりさんと私の2人だけです。和の美しさもありますし、日本の象徴の桜をテーマにした歌ということで、映像がイメージしやすく、「夜桜お七」は日本の歌として世界に発信しやすいのかなと最近思うようになりました。
紅白は世界中の人が見る日本で一番の音楽番組です。お祭りの要素もあります。その中で日本らしさをアピールできる曲という見方もできると思います。とくに昨年は若いアーティストとコラボして、キレッキレのダンスミュージックのようなリズムも取り入れた、新しい側面もアピールできたと思います。ただ、元のアレンジが素晴らしいので、大きく変えることはできない、それでも30年前の曲という古さを感じさせない、私には宝物のような曲です。
■30万枚売れなければ頭を丸める
この曲をいただいた時のことは今も忘れることができません。作曲家の三木たかし先生が「30万枚売れなければ、頭を丸めて責任を取る」とおっしゃって、当時、話題になりました。
恩師の猪俣公章先生が亡くなったのは93年。お葬式で先生と最後のお別れをする時のことです。弟子ですから、早めにお花を手向けて、棺から離れて後ろに行こうとしたのですが、気がつくとすぐ後ろに三木先生がいらっしゃった。先生は「最後までずっとそばにいてやりなさい」と私を前に押し出す。それを3回繰り返しました。そのことが私の中ですごく印象に残りました。
翌年になりますが、新曲を出す段になって小西良太郎さんのプロデュースで作曲が三木先生、作詞が歌人の林あまりさんということになり、あの時のことを思い出しました。これは何かのご縁なんだな、猪俣先生が三木先生に後のことを託してくださったのでは、となんとなく感じました。ですからすべて先生にお任せする気持ちでした。
それまでの私はデビュー曲の「あばれ太鼓」からスタートしてほぼ男歌を歌い、演歌にどっぷり漬かっていた。それが先生から出来上がったデモテープが届いて聴いたらスローなギターで「ザッザッザッ、ザザザッ」という出だしです。一体何が始まるんだろうとワクワクしながら、最後まで聴いて、次に歌う歌はこれしかない! と思いました。
ところが、「ティッシュを……」なんて出てくるのは演歌歌手の歌詞としては斬新すぎる、冒険しすぎ、違和感があるというレコード会社や関係者の反対があって、発売するのはどうかという話になりまして。三木先生はアンパンマンからミュージカルまでお書きになって幅広い活躍をなさっている方だし、林先生は新しい作風にチャレンジなさっていることで知られる方です。従来の猪俣先生のメロディーでもなく、飛躍しすぎるポップスでもない……。猪俣先生が亡くなって、新たな一歩を踏み出す意味ではやはりこの曲しかないと思いました。
三木先生はこの曲に懸ける思いも強かったんだと思います。だから「売れなかったら責任を取って頭を丸める」と言ってくださったんだと思います。先生のあの一言がなかったらおそらく「夜桜お七」はお蔵入りしていたでしょうね。
そんな先生の熱い思い故なのか、演歌歌手の新曲の披露イベントとしては異例の日比谷の松本楼で行われました。いつも春に新曲を出していたので、猪俣先生が書いてくださった最後の作品「船で帰るあなた」を春に出し、「夜桜お七」は9月初旬発売でした。残暑の中で、演歌なのに洋食の松本楼のカレーを食べるという、和洋折衷が珍しかったのか、ちょっとした話題になったのを覚えています。
余談ですが、「夜桜お七」は物語の「八百屋お七」をイメージして作られた曲です。お七は3月29日に亡くなっていますが、私は1967年3月30日の生まれです。ですから、私はお七の生まれ変わりだと勝手に言っています。それくらい縁があるんです。
三木先生とはプライベートでご一緒したことはありません。ただ、私のマネジャーが私を担当する前から三木先生のお父さまがやってらっしゃる渋谷のお店が行きつけだったので、先生とは私よりも親しくさせていただいていました。そんな家族ぐるみみたいな関係だったので、猪俣先生の弟子の私は三木先生のお弟子さんにもかわいがっていただいて、ディズニーランドに連れていってもらったりもしました。