浜崎あゆみ第2子出産報告に「窮屈さ」を感じるのはなぜか
筆者自身、10代の頃は彼女の楽曲や歌詞を夢中で見て聴いた。自分と同じ孤独を、あんなに輝いた人も抱えているのかと思うとそれだけで救われた気がした。だからこそ、今の浜崎の姿に違和感を抱いてしまう自分が悲しい。そのどこか闇を抱えた孤独感から構築される楽曲の世界観や歌詞が、浜崎のカリスマ性にもつながっていた。しかしそれが単なるSNSの投稿だったらどうだろうか? どう受け止めていいのか正直、分からない。
浜崎はもともと、セルフプロデュースの才能もあるアーティストだった。松任谷由実などのステージを手がけてきたディレクターの大橋誠仁氏も〈自分はこういうことをやりたいという意思が明確な人。自分がどう見られているか、どう演出すればいいか、常に考えている。クリエーティビティーがあるんです〉というコメントを残すほど、自分をどう魅せるべきかがよく分かっていたように思う。だがその一方で、だからこそ「若者のカリスマたる浜崎あゆみ」に彼女自身が縛られているのではないか。
年齢を重ねても、自由なファッションを楽しみ、固定概念に囚われない結婚や出産をすることは、本来「憧れ」になるはずだ。しかし、今の彼女を見てもむしろどこか「窮屈そう」に感じてしまう。