だから桑田真澄さんは伝説的な存在だった。PL学園の野球部員は授業中に寝るはずなのに…
そんなめちゃくちゃな1年生ルールがあったにせよ、名門野球部の門を叩けるのは、1学年20人、計60人ほどの全国から集められたエリートばかり。僕が入学した当時、3年生に入来祐作さん(巨人)、2年生には坪井智哉さん(阪神)がいた。後に1学年下の松井稼頭央(西武)も入学してくる。当時は公立校にも負けたことがある低迷期だったが、選りすぐりのメンバーが集まっているだけに、練習のレベルは高かった。
率いるのは、1981年春に監督として甲子園初出場、98年春を最後に勇退するまで、18年間で春夏16回の甲子園出場で、優勝6回、準優勝2回。通算58勝10敗で勝率.853を誇る中村順司監督である。
卒業後プロ入りを果たした教え子は、僕を含めて39人にのぼる。先を見据えた中村監督の指導の柱は「球道即人道」。グラウンドの中に人間社会の縮図があるというPL教団の教えで、全てのプレーは自分のためでなく、チームのために、というPL野球の原点となる言葉である。
中でも中村監督がこだわっていたのが「姿勢」と「歩き方」と「走り方」。骨や筋肉といった体を理解し、ムダのない動きを身につける。そのうえで、どうすればバットに自分の力を効率的に伝えて打てるのか。どうすれば強くて速い球を投げられるのかを細かく教えられた。
高校卒業後も野球を長く続けるため、故障回避にもつながる指導法だ。スパルタ式が当たり前だった30年前、平日は約3時間という短期集中型や個人練習の推奨など、今に通じるような指導を行っていた。そんな名将・中村監督はなぜ甲子園で勝てたのか──。