「ムーラン・ルージュ」は搾取に命がけで抗う者たちの群像劇であると痛感した
美しい恋愛ドラマでありながら、芸術家と貴族の階級闘争を描く
まずは6月末の平原綾香×甲斐翔真版。平原さんがボーカリストとして圧倒的力量の主であることはこの国の常識だろう。無論それはミュージカルの舞台に立つうえでも絶対的な強みだが、その日ぼくが心を奪われたのは、ダンスを含む所作のひとつひとつ。エレガンスとリアリティの高次元での両立。
野暮を承知で言うならば、けっして歌手の余技ではない。翌日にツイッターで手短に感想をつぶやいたら、それをすぐに平原さんが引用リツイートという想定外の嬉しい出来事もあった。プリンシパルだけでなく、アンサンブルがすばらしかったこともあざやかな印象を残した。
2回目は先の日曜(9日)の望海風斗×井上芳雄版。さすがの貫禄だった。その長いキャリアから〈帝劇の住人〉のイメージもある井上だが、ここでは〈ムーラン・ルージュ初出演に臨む初々しい若者〉を演じきってまったく無理がない。
一方の望海は、宝塚の元トップスターという実人生に近い役柄であり、もちろんながら当たり役。彼女のこれからの輝ける演劇人生でも、屈指の代表作となるのではないか。マレーネ・ディートリッヒが降臨したような魅惑的な佇まいは、数日経った今も思いだすだけで陶然としてしまう。
何よりも肝要なのは、これは美しい恋愛ドラマでありながら、劇中の台詞を借りれば「ド派手なプロレタリアショー」に人生をかける俳優や芸術家たちと、ショーに「金を払っている貴族」との階級闘争を描いていること。3時間におよぶ観劇後に残る体感はスイートだけに終わらず、意外なまでにビター。『ムーラン・ルージュ』は搾取に命がけで抗う者たちの群像劇であると痛感した。
16時すぎ、たしかな満足を覚えて帝劇を出た。猛烈に混み合う玄関付近の雑踏から聞こえてくる会話で、奇しくもその日が帝劇と縁の深いジャニー喜多川氏の命日だと知った。