「ジャニーズ最後の日」とダンディズムの終焉…故人たちに多くの気づきを与えられた月曜日
今週月曜(10月16日)、朝のテレビはその日が「ジャニーズ最後の日」であると報じた。翌17日付で社名が「SMILE-UP.」に変わる。それを惜しみ週末のジャニーズショップや本社ビル前に集ったファンたちの様子も放送された。感傷的な「街の声」の羅列にテレビ局の魂胆を見た気がしたけれど。
だが、テレビつけっ放しで雑事を消化していたぼくの頭の中は、夜に妻と行く予定のフランシス・レイ・オーケストラ公演のことでいっぱいだった。レイは1932年生まれ、2018年に86歳で亡くなったフランスの国民的作曲家。同年生まれで2019年に他界したミシェル・ルグランとともに、日本で最も有名なフランスの音楽家だろう。
夕方、会場に向かう車中でふとスマホに目をやると、号外を知らせるポップアップが。アリスの谷村新司さんの訃報だった。享年74。未熟さを愛でる音楽が主流を占めるこの国のポップス市場にあって、徹頭徹尾、成熟の美学を表現してきた大歌手の人生としては、いかにも短い。やりきれない。
■谷村新司さんとの思い出
チンペイさん(昔日のラジオ番組リスナーとしてこの愛称で呼ばせていただく)とは、1997年に一度対談した。ときにチンペイさんはすでに大物と呼ばれて久しい48歳、ぼくは29歳の生意気ざかり。当日、まだ爆発的ブームになる前の「dj honda」のキャップをかぶって彼が登場したことに、ぼくは若干の戸惑いを覚えたものだ。キャップ愛用者でも知られた彼のコレクションのひとつなのか、あるいはhonda本人と近い関係のぼくへの気遣いなのか。いずれにせよ、フォーク畑出身のチンペイさんに、ヒップホップやブラックミュージックのイメージは希薄である。
ところが、それはぼくの知識不足だった。チンペイさんによれば、アリスの所属事務所ヤングジャパンこそはソウルの帝王ジェイムズ・ブラウンの初来日公演を実現した会社。だが公演は超のつく不入りで、2700人収容可能の大阪フェスティバルホールに集った客はわずか200人だったとか。同社が莫大な借金を背負い、ヒット曲もないアリスはひたすらライブ活動に邁進することに。1974年には前人未到の年間公演数303回を達成して人気の土壌を作り、翌75年の「今はもうだれも」でついに悲願の初ヒットを放つ。
「そう、だからアリスがブレイクしたのはジェイムズ・ブラウンの不入りのおかげやし、日本にブラックミュージックが定着したのは、じつはアリスのおかげなんよ」
偽悪的なトーンで語ったチンペイさんは、いたずらっ子の表情で不意に「わかる? マツオ」とぼくの名を呼び、相好を崩した。それだけでも夢のような話だが、ここから始まったチンペイさんとぼくを結ぶ細い糸は、2012年、坂本冬美さんのシングル「人時/こころが」にそれぞれがWリード曲を提供するという、思いもよらぬ物語を紡ぐことになる。愉しかった夢の続きは自分で作るしかない。それが大人というもの。粋人・谷村新司はそう教えてくれた気がする。