元テレ朝アナ松井康真さん 青森・六ケ所村再処理工場で自主取材中に震災「それが3月11日」
服を脱ぎ、パンツ一丁になって防護服のような身なりで建屋へ
前日夜に三沢空港に入り、朝から行ったのですが、ゲートが3段階あり、厳しい検査を受けながら扉を1つずつ通っていくんです。服を脱ぎ、最後はパンツ一丁になって防護服のような身なりになって建屋の中へ。もちろんスマホなど持ち物は許されません。
一連の見学の後に最後に6500体の核燃料が入った冷却プールをガラス越しに見学。その建屋を出ると敷地内も広いのでマイクロバスで移動ですが、乗った瞬間でした。めまいがするんです。
「なんだろう? 何か変ですよ」と私。急に周り中の建屋から人がわーっと出てきた。本部に戻ると「地震です! 震度7」と言われ、「ええ!」と驚きました。
「震源地は福島」と聞かされ、青森で7なら福島は……と福島第1原発を思い恐怖を覚えました。
急いで敷地外に出たいのに3段階のゲートはすべて電子錠で、停電後の自家発電が追いつかず、出るまでに時間がかかりました。呼んであったタクシーに乗り込み、系列の青森朝日放送に飛び込み報道部へ。
報道部に知っている人が多くて、「なんで松井さんがここに来てるの?」「六ケ所村に行ってました」「えええ!」。そのまま報道フロアでサポートに入りましたが、次々に福島第1原発事故の信じられない情報が入り、本当に体が震えました。
翌日、延伸したばかりの東北新幹線はストップしていて、飛行機の200人以上のキャンセル待ちになんとか乗れて夕方には東京のテレビ朝日に戻れました。
■フリップ原稿をほぼ1日、1人で書いた日も
解説者探しも困難を極めました。東大の教授の方にはどの局も断られたみたいでブッキングできません。一緒に六ケ所村へ行った東工大の教授に連絡すると、「俺よりもっと詳しい、原発事故の専門の教授を紹介する」と言われ、その教授の方にどうにかお越しいただき、3日間連続で出ていただきましたが、すぐに同じ東工大出身でもある菅直人総理に呼ばれて内閣官房に入られました。
解説者の話を聞きながら解説者が求めている図入りのフリップを用意しなければならないのですが、フリップ原稿をほぼ1日、私が1人で書いた日もありました。
何しろ最初の3日間はCMがなかったので打ち合わせができず、教授のスタジオ解説を聞きながらリアルタイムで先を読み、どんどん発注しました。現場も混乱して誤った情報を出そうとしていて「他局もそうやっています」「いや、それは違うから」と止めたりもしました。
私はその3日間、一切画面に出ていません。だから私がそんなことをしていたと、視聴者の方も社内のほとんどの人も知らないはずです。報道の方には「松井がいて本当に助かった」とは言っていただけましたが、2カ月前から原発の集中取材をしてなかったら……と考えると、なぜこのタイミングで私ごときがこんな取材をしていたのか複雑な気持ちでした。
それまで社内には原発事故対策の専門の部なんてありません。事故から約1週間後に社内でも理系で報道に携わった者や系列局の原発担当記者が集められ、原子力事故対策班がつくられました。
私はそのまま7月の人事でアナウンス部から正式に報道局に異動になり、原発事故報道に尽力しました。その後、宮内庁担当や気象災害担当を経て今年の3月に定年退職。今はフリーとしてアナウンサーや司会業をやっています。自主的に原発の取材を行ったあの2カ月は大きな経験だと今も思います。
(聞き手=松野大介)
▽松井康真(まつい・やすまさ) 1963年3月、富山県出身。86年にテレビ朝日入社。25年のアナウンサー、12年の報道記者生活を送り、2023年に定年退職。フリーアナウンサーに。プラモデルマニアとしても知られ、俳優・石坂浩二主宰のプラモデルクラブろうがんずの発起人の一人でもある。