元テレ朝アナ松井康真さん 青森・六ケ所村再処理工場で自主取材中に震災「それが3月11日」
フリーアナウンサー(元テレビ朝日) 松井康真さん(60歳)
テレビ朝日でアナウンサーと記者として活躍された松井康真さんのその瞬間は東日本大震災の日。青森・六ケ所村の核燃料サイクル施設にいたという。震災の瞬間と原発事故後の報道について語ってくれた。
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■2010年デスクに、原子力発電所の問題に取り組む
テレビ朝日に1986年に入社してからアナウンサーを続け、2010年の10月に初めてデスクもやることになったんです。誰かをシフトする立場がイヤで逃げ回っていたのですが、逆に考えれば、自分自身も好きなことがやれるようシフトできる立場。
「それなら前からやりたかったことをやろう!」と3つの企画を考案し、そのうちの1つが原子力発電所の問題でした。
「もしも原発事故が起きたら、我々はどう報道するべきか」というテーマ。当時、弊社には原発担当の記者はいなくて、仮に東京電力の原発で事故が起きた場合は東電を担当する経済部が取材する立て付けでした。または旧科学技術庁担当という意味では普段は教育問題や芥川賞などの取材をしている文部科学省担当がやるわけです。
■東工大卒「まず私自身が原発のことを知らないと」
「今のままでは事故が起きたら報道が難しい」と感じ、番組企画ではなく、まず私自身が原発知識をスキルアップするため自主取材の企画書をアナウンス部長に提出したんです。私は東京工業大学時代に原子力を専門で勉強したわけではないですが、理工系に抵抗はなく、まず私自身が原発のことを知らないと取材の仕方がわからないと思いました。
サークルの先輩に原子力の教授になられた方がいて東電を紹介してもらえ、翌11年の1月に東電の方と新橋の本社でお会いしました。テレビ朝日の人間が原発を取材しに来るということで、すごく警戒されて、とても敷居が高く振る舞われた気がしました。
会議室に通されると広報の方が4人もいらしてそこに専門の教官も現れ、たくさんパンフレットを渡されて原発について講義を3時間受けました。
その講義の冒頭すぐに私が「ジルカロイ(※原子炉の燃料被覆管の材料)の融点を教えてください」と質問すると、みなさんが驚き、原子力のことを少しはわかっていて揚げ足取りで来てるんじゃないんだなと思ってくれたみたいでした。変なやつではないと。それからは意気投合し、その後も取材を重ね、回を重ねるごとに信頼されました。
でも、私がはっきりお伝えしたのは「私は原発は安全ですというちょうちん記事を書きたいわけではない。もし原発事故が起きた場合、我々は何をどう報道すべきで、あなた方はどう情報開示してくれるのか」ということでした。
信頼関係が築けたところで初めて現地取材の許可が出ます。とくに場所を希望しなかったので、指定されたのが柏崎刈羽原発の7号機。一番新しくて最新技術で一番安全なところでしたね。
3月2日と3日。番組ではないのでTVカメラもなく出張費も出ないので、私は冬休みをとって新潟まで自費で行きました。点検休止中の4号機の格納容器の内部も見せてもらいました。写真がその時のスナップです。所長さんともお弁当を食べながら1時間ほどいろいろ聞かせてもらいました。
「柏崎刈羽原発のホームページを見ましたが、もしも事故が起きた場合にモニタリングポストの数値はどこにあるんですか」
僕が尋ねると所長さんが広報の方を呼び、「トップページのここを押して、次にここを押して、次にこれを押すと出てます」と広報の方。僕が「モニタリングポストの数値はトップページに書くことはできないんですか」と迫ると、所長さんは「そんなことを言ってきた人は初めてだ、それはいいことだからすぐやりましょう!」と。
その翌日にはまた自主取材で福井県の高速増殖炉もんじゅにも行きました。
東電を紹介してくれた東工大の教授が「六ケ所村なら俺の先輩も教え子もいるから一緒に行こう」という話になり、翌週に六ケ所村再処理工場で核燃料サイクルシステムも自主取材に行くことに。
それが3月11日でした。