森保J中盤の要MF田中碧が「高い発信力」を身に付けた原点とW杯での可能性
カタールW杯アジア最終予選の節目となった2021年10月のオーストラリア戦(埼玉)。のるかそるかの大一番で値千金の先制弾を叩き出し、日本代表レギュラーの座をつかみとったのが田中碧(23=デュッセルドルフ)だ。森保日本が発足した2018年夏の段階では、当時所属の川崎でほとんど試合に出ていなかった若手だけに、急激な成長曲線には驚かされる。「小学校6年時で比較すると、碧は(川崎フロンターレ下部組織の)先輩の三好(康児=アントワープ)や滉(板倉=ボルシアMG)、薫(三笘=ブライトン)に比べて選手として足りない部分が多く、心配していました。でも本人はプロになってから人の倍以上の時間をサッカーに捧げ、今の立場をつかんだ。その集中力は凄まじいものがあります」。U-12(12歳以下)監督を皮切りにU-18時代まで関わってきた恩師・髙﨑康嗣(52=J3テゲバジャーロ宮崎監督)に「日本のダイナモの原点と可能性」を存分に語ってもらった。 (敬称略)
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■幼さもあって叱ってばかり
──田中碧は小学3年で川崎U-12入りしました。
「もともと明るい子でしたが、幼さもあって、自分をうまく表現できるタイプではなかった。ただ、傾聴力が高く、素直な性格だったので、周りの話をよく聞き、受け入れていました。碧は人の懐に入るのもうまいんですよね。そうやって吸収し、実行することで徐々に成長していったと思います」
──どんな声掛けを?
「もう碧のことは叱ってばっかり(笑)。一人っ子のマイペースですからね。でも怒られたことを忠実にこなすのが彼なんです。同じことを何度も繰り返して自分のモノにしていく。その能力は非凡なものがありました」
──堂安律(フライブルク)、冨安健洋(アーセナル)とともに14年AFC・U-16選手権(タイ)に出場しました。
「当時は『西の堂安-東の渡辺皓太(横浜M)』といわれていた頃。碧は彼らの陰に隠れていた存在でした。U-16代表でもサブでしたが、彼は自身の現在地を冷静に見極め、地道にコツコツと努力した。その経験が今につながっているんです」
──高校時代はどんな選手でしたか?
「私は、神奈川選抜のスタッフとして14年の長崎国体に参戦しました。碧はここでも渡辺皓太、斉藤未月(G大阪)、吉尾海夏(横浜M)といったタレントに囲まれ、突出した存在ではなかったですね。それでも、一丸となって堂安のいる大阪選抜を準々決勝で4-0と圧勝し、優勝までこぎつけた。今振り返ると結局、チームは碧中心に回っていたな、と感じます。彼は仲間の力を引き出すことにたけたリンクマン(守備から攻撃に移る際のつなぎ役)。いざという時の発信力も高いんです。川崎U-12の頃も碧とヤン(高宇洋=新潟)がピッチ上の監督をやってくれるので私が口を出す必要がなかった。ピッチ上では頼もしい存在ですね」
──とてもクレバーな選手ですよね。
「そうですね。高校でも成績は良かったですし、推薦で筑波大や早稲田大も目指せるくらいのレベルにはいたと思います。『自分がやりたいサッカーを選べるように勉強もしてくれ』と我々指導者も言っていましたし、本人も理解して取り組んでいましたね」