森保J中盤の要MF田中碧が「高い発信力」を身に付けた原点とW杯での可能性
リーダーになり得る資質
──17年に川崎でトップ昇格してからはどう見ていましたか?
「技術的にもメンタル的にも足りない部分が多かったので『ユースから昇格して本当に大丈夫かな』と不安視していました。先輩の三好や滉もなかなか出番を得られず、レンタルに出されていたくらいですからね。ただ、彼の入った年は脇坂泰斗(川崎)が、阪南大から特別指定選手として戻ってきただけでユースからの昇格組は碧1人だった。憲剛(中村=川崎FRO)が30代の後半に差し掛かり、大島僚太(川崎)もケガがちで中盤の選手が手薄になったこともあって18年以降、少しずつ出られるようになりました。彼は『タイミングのいい男』なんですよ」
──川崎の世代交代のサイクルに乗りました。
「そう。国体の時も横浜Mの中盤のエースがケガで碧が浮上した。ギリギリ残った感じです。上に行く選手は運を味方にできる。最終予選で森保一監督が4(DF)-3(MF)-3(FW)に布陣変更し、そこに入り込めたのも、流れとしては良かったと思います」
──カタールW杯アジア最終予選後半は3ボランチの主力として活躍しました。
「滉や薫は、今回のカタールW杯を目指せると思っていたけど、碧は次の26年W杯かな、と考えていました。4年分を短縮できたのは、常人とは比べものにならないくらいサッカーに時間を割いてきたから。川崎の全体練習後も、遊びに行かないで筋トレや体のケアに励んでいたと聞いていますし、デュッセルドルフに行ってからは、ドイツ2部の激しさに適応しようと必死に取り組んだはずです。ドイツには長谷部(誠=フランクフルト)や航(遠藤=シュツットガルト)という良いお手本もいますし、碧もリーダーになり得る資質がある。次はゴールを決めるところを追求していってほしいです」
■逃げも隠れもしない
──そんな真面目な若者がW杯アジア最終予選の期間中に5歳上のタレント・鈴木愛理さんとの交際を堂々と宣言したことには驚かされました。
「何かあっても、逃げも隠れもしないのが碧。私に連絡はなかったですけれど、『凄いことをしているな』と感じましたね(笑)。日本代表としてやっていく覚悟と決意の表れだったのかな、とも思っています。そうやって責任を背負って、自分を追い込むところは彼らしい。前向きなエネルギーにしてくれると信じています」
──約4カ月後のW杯に向けて、どんなメッセージを送りたいですか?
「碧だけじゃなく、滉と薫も『ここからが勝負です』と言っていたけど、まさにその通り。ここからが、生き残りをかけた戦いなんです。14年ブラジルW杯直前で憲剛が外れたように、最後の最後まで何が起きるか分からない。だからこそ『満足するな』と言いたい。彼らはもちろん分かっているでしょうが。6月のブラジル戦(東京)を見ても、碧は相手に圧倒されて何もできなかった。『こんなんでW杯に行けるのか』と危機感を覚えたでしょう。今は『もっと成長したい、強くなりたい』という野心に満ちあふれているはず。ここからが本番です」
──今、一番伝えたい言葉は?
「彼らに言い続けてきたのは『人間性』。『サッカーを辞めた時に何が残るのか。人として尊敬される存在になることが大事なんだ』とジュニア時代から口を酸っぱくして話しました。謙虚に、素直に、誠実に、真心こめて前進することが一番自分を高めてくれる、と私は信じています。碧もひたすら自分と向き合い、今の地位まで上り詰めた。そういう人間性があるから、自然と仲間が集まって輪をつくれる。碧の能力が、日本代表にうまく生かされることを祈りたいですね」
▽田中碧(たなか・あお) 1998年9月10日生まれ。神奈川・川崎市出身。小学3年から川崎フロンターレの下部組織でプレー。2017年にトップとプロ契約。18年9月のJ1デビュー戦で初ゴール。21年6月に独2部デュッセルドルフに移籍。19年6月にU-22日本代表選出。同年12月、E-1東アジア選手権に出場する日本代表に招集された。東京五輪では全6試合に先発出場。21年10月のW杯アジア最終予選オーストラリア戦でW杯予選初先発で初ゴール。身長180センチ・体重74キロ。
▽髙﨑康嗣(たかさき・やすし) 1970年4月10日生まれ。石川・金沢市出身。茨城・土浦一高から東京農工大。筑波大大学院終了。土浦一高、筑波大、東京大でコーチを歴任。川崎フロンターレでU-15コーチを経て2006年にU-12監督。U-18コーチなどを経て16年にJ2いわてのヘッドコーチ。専修大監督、新潟医療福祉大コーチから21年12月、J3テゲバジャーロ宮崎の監督に就任した。