森合正範氏「記者として絶望感、敗北感を感じたのは井上尚弥が初めてです」
井上の試合に感情移入できない理由
──本書に登場するボクサーは井上の強さを「石のような拳」「スピード」「殺気」「クレバー」など、いずれも違った言葉で形容しています。
この取材を始めた時、僕が恐れていたのもそれです。みんな同じような言葉で井上の強さを表現するのではないか? 対戦相手が違うだけで似たような内容になるんじゃないか? と懸念していました。
──なぜ、井上の印象は対戦相手ごとに異なるのでしょうか?
ボクサーとしての井上尚弥の引き出しが多いからだと思います。相手が対策を練ってきても、それまで見せていなかった引き出しで勝負を仕掛ける。スティーブン・フルトン(23年7月、8R・TKO)との試合ではこれまでの引き出しを一気に見せた印象でしたが、まだまだ底が知れません。
──森合さんは井上に何度もインタビューをしています。印象はどうですか?
ボクシングが大好きな青年、ですね。ただ好きというだけではない。ステップやシャドー、ワンツーなどの地味な練習を「楽しい」と言えてしまう。普通なら飽きて「スパーリングでもしようぜ」となるんですけどね(笑)。面白いのは、対戦相手が強敵であればあるほど、試合前のインタビューで冗舌になる。逆に下馬評で圧倒的に有利だと口数が少なくなるんです。
──普通は逆だと思いますが……。
後者の場合、対戦相手について聞こうと思ったら、「その話はいいじゃないですか」と質問をさえぎられたこともある。強い相手と戦うのが純粋に楽しみで、そうでない場合はモチベーションを上げるためにあえて自分自身を追い込んでいるからだと思います。
──12月26日、井上はマーロン・タパレスとスーパーバンタム級の統一戦を行います。
(スーパーバンタム級に転向して)2試合で4団体統一って凄いですよね……。ボクシングに絶対はありませんが、それでも注目されているのは「どっちが勝つか」ではなく、「井上尚弥がどんな勝ち方をするか」ですからね。そこはちょっとタパレスがかわいそうではありますが。
──本書は井上の強さを探る旅でもあった。最終的にその答えは出ましたか?
繰り返しになりますけど、まだまだ井上尚弥の底が見えてないので、わからないんですよ。普通、ボクシングの試合って、感情移入するじゃないですか。例えば「そこでもっと攻めろ!」とか、もどかしい気持ちになったり。でも、井上尚弥にはそれがない。そう思う前に試合を決めてしまうので、「おー!」とか「マジ?」しか言えない。だから、いまだに井上尚弥というボクサーの全貌が僕には掴めていないんです。今後、彼を苦しめるような、持ってる引き出しを全部出し切らせて苦戦させるボクサーが出てきた時、初めて「強さ」がわかるのではないのでしょうか。
(聞き手=阿川大/日刊ゲンダイ)
▽森合正範(もりあい・まさのり)1972年、横浜市出身。大学卒業後、スポーツ紙を経て中日新聞に入社。ボクシングをはじめ、中日ドラゴンズやオリンピックなど、さまざまなスポーツを取材。著書に「力石徹のモデルになった男 天才空手家 山崎照朝」。