中国でドラマに抜擢 崖っぷち時代の矢野浩二を救った恩人
2000年4月に北京に渡り、3カ月間撮影しました。当時は「ニイハオ」「シェシェ」くらいしか中国語を知らなかったけど、日本人留学生役だったので演じることができました。そして、撮影が終わったら改めてまた来て、とことんやってみようと思った。でも、とくに中国に魅力を感じたわけではありません。「永遠の恋人」はヒットしなかったので、手ごたえを感じたわけでもありません。日本で俳優として結果が出せなかったので、自分の居場所を探した先が中国だったんです。
翌01年4月、ひとりで北京に渡り、築30年、家賃2万円ほどのオンボロアパートを借りて生活し始めました。そして人脈づくりをしたり、中国語を学ぶ学校に通ったりするうち、楊陽監督と会う機会に恵まれたのです。「記憶の証明」の撮影終了後、監督はボクを自分の会社所属の第1号の俳優にしてくれました。そして05年1月、中国中央電視台が由緒ある北京ホテルで大々的に開くパーティーに連れていってくれました。著名な監督やプロデューサー、俳優が一堂に会する中、円卓を一つ一つ回りながら頭を下げて紹介してくれたんです。日本人を悪く言う人もいたと思うのに、そこまでやってくれるなんて勇気があるなと思います。